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オリエンテーション
A. イントロダクション
本書「安らぎのマニュアル-吉祥経」をお手に取って頂き、どうもありがとうございます。このオリエンテーションでは、道徳を勉強する際の方法論と、本書に収められている吉祥経38 項目の背景を説明していきます。本書で扱う内容はこれといって複雑なものではなく、タイ人にとってはほとんど皆が触れたことのあるもので、事実この項目に関するテストを毎年400 万人を超える児童・生徒が受けている程にメジャーなものです。タイでは 1982 年を境に、学校教育における職業訓練的要素を過度に重視する風潮が進み、それに反比例するように精神性に関する教育の時間が削減されていきましたが、それでもなおこの吉祥経だけは、精神性を扱う教育科目として辛うじてカリキュラムに残りました。
A-1. なぜ心の教育が必要なのか
読者の皆さんの中にも、学術知識や物質的な知識だけでは不十分なのだろうか、と疑問に思われた方がいらっしゃるとかと思います。もし人間が、お腹が膨れて眠ることさえできれば幸福でいられる存在であったなら、道徳についても精神についても学ぶ必要は無いはずでしょう。しかし、心の深いところを見ていけば、万人が答えを求めてやまない普遍的な問いが流れているのが見つかるものです。
すなわち、この世界で自分が生きていることの目的と、その意味に対する問いです。身体を養う事のみが人生の目的であったなら、お金持ちこそこの世で最も幸福な人々であるということになります。しかし残念ながら、物質的な財産からは物質的な快適さしか得られません。お金では、心を養う事はできないのです。また、どんな資格や学位を持っていても、心の飢餓を止める事はできません。それどころか、せっかく教育から得た知識を使って、他の人には思い付かないようなとんでもない犯罪に手を染めてしまう人すらいます。世俗の教育を受けても必ず幸福になれるという保証はありませんし、それを悪用して刑務所に入ってしまう人もいます。
ここに、世俗的教育と心に関する教育との明確な差異が見られます。というのは、心に関する教育から正しく学んだ場合、刑務所に入るような事はまずあり得ないからです。というのも、それは単純に頭に知識を詰め込む教育ではなく、考え方、話し方、行動の仕方そのものを向上させていく道であるからです。
私たちが内奥に抱えている問いに関しても、世俗の教育がヒントを与えてくれれば理想的ですが、現状ではこの要望は満たされていませんし、今後も期待はできないのかもしれません。というのも、自己への問いかけの過程こそが、この道を進み知識を得ていく為に必要不可欠だからです。私たちはこの答えを世俗の教育以外の所から見出さなくてはならないのです。
A-2. 限定的価値と普遍的価値
私たちの精神を磨いてくれる要素には様々なものがあります。それはこの世で出会う人であったり、物であったり、態度や状況、経験であったりしますが、それらの価値に関する判断は、人それぞれ異なる限定的なものでしかありません。私たちの人生を向上させると言われているものの中に、万人に例外無く当てはまる普遍的なものはあるでしょうか。
私たちはブランドをステータス・シンボルと見なします。現代のブランドを例を挙げると、メルセデスやアディダスがあるでしょう。それらブランドは自社のブランド価値を上げる為に宣伝にお金をかけていますし、消費者たちも多少値段が張ったとしてもそれらのブランドのロゴが入った商品を選びたがるものです。そうしてブランド品を選ぶ理由は何かというと、それら有名ブランドのシンボルを身に付けることで、多かれ少なかれ自分自身の価値が上がると思うからでしょう。それらブランドの価値を普遍のものであると見なしている人もいますが、実際には時代ごとに移り変わるもの、つまりは流行、その時のファッションでしか無いのです。
ブランドなど無かった時代にも、人々は「お守り」集めに凝っていました。お守りも、身に付ける事で自分の価値が上がり、人生が上向きになると信じられていた点でブランドと共通しています。今日でもお守りは「幸運の蹄鉄」や「四つ葉のクローバー」といった形で残ってはいますが、かつてに比べればそれらに対する人々の情熱はかなり薄くなっています。かつての人々のお守り対する思い入れは、今よりももっと切実だったのです。
本書で言うところの「心」とはすなわち、この世の普遍的価値を求めた人々が見出した万人に当てはまる要素であり、これを向上させることで私たちの価値を普遍的な意味で高められるとされる要素を指します。この世界にはこうした意味での心に関する知識を扱う様々な伝統がありますが、それらは理解の深さに応じてそれぞれ形が異なってきます。
それらの内、当てはまれば理想的と思われる要素を挙げてみます:
・段階性-単純なステップから複雑なステップへと徐々に移行していけるもの
・自発性-実践する程に自然とやる気と熱意が湧いてくるもの
・多様性-人生のあらゆる局面において適用できるもの
・全体性-ある一部の事にのみ関するものではなく、あまねく全体に関連しているもの
・レベルの多様性-自己に関するレベルから他者や家族、社会や国際レベルの問題までを扱うもの
・万人に当てはまる普遍性-あらゆる文化圏の人々に等しく当てはまること
・万事に当てはまる普遍性-ある単一の問題のみではなく、万事に当てはまること
・実用性-理論や哲学だけではなく、現実的な方法を示していること
・価値の超越性-世俗的な価値観を超越していること
・対立的要素の明確性-避けるべき要素と求めるべき要素の違いを明確に示していること
心の価値を説く様々な教えの中にも、これらの要素を欠いているものが多々みられます。中には強い限定性を持ち、別の信念を持つ人々への攻撃性を示すような教えもありますが、そうしたものはグローバル化と人類共生の意識が進んだ現代社会にはそぐわないと言わざるを得ません。また、特殊な言語や特殊な文化様式を持つことで自らと社会とを切り離し、現実の問題を無視していくような教えもよろしくありません。
B. 吉祥経
B-1. 吉祥経の歴史的起源
「吉祥経」は、先ほど挙げた項目の全てを満たしている大変興味深い教えを示し、「普遍的な価値」に対する一つの回答として形成されたものです。人類は太古の昔から物事の価値判断をしてきた訳ですが、2500 年前のインドの人々は、時流に流されない、時流を超越した普遍的な
価値を追求し始めていました。どんな吉祥(祝福)を持ってすれば人生を障り無く生きられるか。富、名誉、名声、幸福だけを受けられる様になるにはどうすれば良いか。この問いを根本とする思想を大きく分類すると、以下の 3タイプになります:
1. 喜ばしいものを「見る」事が人生に吉祥をもたらすという思想
2. 喜ばしいものを「聞く」事が人生に吉祥をもたらす思想
3. 喜ばしいものを「見たり聞いたりした時の心の動き」が人生に吉祥をもたらすという思
「喜ばしいもの」のイメージは人それぞれ違うので、上記の思想を持ったグループは当然、お互いに相容れませんでした。ある人にとって心地良い音楽も別の人には不快だったりするものですし、今日気に入っていたものでも翌日になればウンザリしていたりするものです。こうなると、無条件で「吉祥をもたらす」と定義できるものなど何も無い様です。かくして、「吉祥とは」という議論は尽きること無く延々と続きました。現代に於いてですら「本当にめでたいこと」の定義は曖昧です。
この議論はお釈迦様の解説によってようやく終焉をみました。「吉祥とは何か」と尋ねられた時のお釈迦様の回答こそ、今日「マンガラ・スッタ」(Maṅgala-sutta)すなわち「吉祥経」として知られる経典に記されているもので、そこには10 のグループに分けられる38 の項目が記されています1。
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1 「マンガラ・スッタ」(Maṅgala-sutta:吉祥経)は、十三の偈頌からなる小経で、クッダカ・ニカーヤ(Khuddakanikāya:小部)のクッダカパータ(Khuddakapāṭha:小誦経)に第五章としてそのまま収められ(Khp.2-3)、また同じくクッダカ・ニカーヤのスッタニパータ(Suttanipāta:経集)にも、「マハーマンガラ・スッタ」(Mahāmaṅgala-sutta:大吉祥経)という名で第二章第四経として収められています(Sn.vv258-269)。
B-2. 言葉の定義:「吉祥」とは?
吉祥(maṅgala)という言葉の意味を測りかねている方もいらっしゃると思うので解説しておきます。「吉祥」を祝福の行為やその対象と捉える人もいるようですが、ここでは「成功や進歩、幸福のもととなる要素」として定義します。
具体的には、「吉祥」とは以下の4 項目をもたらす事によって人々を幸福に導く要素です。
1. 富(世俗の富、精神的な富、涅槃の富)の獲得
2. 人生に於ける障りと悪を取り除く為の智恵の獲得
3. 身体、言葉、意識の美徳の、基礎、中級、もしくは上級レベルに至らせる
4. 現世、来世、それ以降という3つの次元での利益「人や社会にポジティブな進歩をもたらす要素」も吉祥と呼んで良いでしょう。運命論の様なものとは違い、吉祥には前向きな明るさがあります。
B-3. 道徳教育の原理
コンピュータは大きく分けて二つの要素から構成されています。ハードウェアとソフトウェアです。ハードウェアとは配線や回路の事で、ソフトウェアとはその中にインストールされたプログラムの事を指します。ハードウェア自体の性質は良くも悪くも無い中立的なものですから、コンピュータを有益なものにするか有害なものにするかは、ひとえにそこにインストールされたソフトウェアの性質次第ということになります。仕事に役立つプログラムをインストールしたなら、そのコンピュータは有益なものとなるでしょう。ところが、暴力的なゲームやウイルス、ポルノなどを入れたなら、同じコンピュータが途端に堕落の源となります。コンピュータの価値は、中に入っているソフトウェア次第なのです。
コップもまた中立的です。同じコップが有益なものになるか有害なものになるかの境目も、そこに入る飲み物次第になります。ミルク等の栄養のある飲み物を入れたなら、そのコップは万人にとって有益な素晴らしいものとなるでしょう。
一方、もしアルコールや毒物の類いを入れたなら、そのコップの性質は一変して良からぬものになります。この様に、コップの性質は中に入れるもの次第で変わるのです。
同様に、人間の構造も二つの要素から成っています。すなわち、身体と精神です。
ここでいう身体とは、血液、骨、筋肉、臓器などを含む肉体の事を指し、脳もここに含まれます。そして、精神とは知識や意識の在り方を指します。精神は「機械の中のゴースト」の様なものです。人間の肉体それ自体はやはり中立的なものですので、真っ直ぐな性格の人と堕落した性格の人との差異は、身体の構造よりも精神の在り方の違いによって出てくるのです。残念な事に、私たちの「工場出荷時」には何のソフトもプリインストールされていません。私たちは人生に対する何の知識も持たない、いわば愚かな状態でこの世に誕生した後に、生きていく為に必要な知識を徐々に蓄えながら育ちます。その過程でどのような知識を蓄えるかによって、私たちの進む道は変化していきます。
知識を分類すると以下のようになります。
・適切な知識:創造的で、自他に対して有益な知識
・不適切な知識:ネガティブで、自他に対して有害な知識
私たちの知識は、周囲の影響を大きく受けながら蓄積されていきます。中でも最も基本的かつ影響力が大きいのが、周囲の人々からの影響でしょう。周囲の人々からの影響と、それ以外の自分を取り囲む環境からの影響と2分しても良いでしょう。この2項目による影響が理想的なものであれば、世界に対する正しい見解、価値観と態度(「正見」)が得られるでしょう。
本書で紹介する吉祥経の第1 のグループでは、何が正しく何が間違っているのかの判断基準となる「見識」を追求していきます。高い知能を持っていたとしても、見識が間違っていればその人の未来は明るいとは言い難いものです。逆に、たとえ高度な教育は受けていなくても、真っ直ぐな見識さえ持っていれば社会に迷惑をかけるような人にはならずに済むでしょう。正見(sammādiṭṭhi)を持つというのはそういう事です。愚かな人々との交際を避ければ名声や智恵を損なう事は少なくなりますし、種々の美徳が開花する可能性も高まります。数ある吉祥項目の内、たった1項目を実践するだけでこれだけの利益があるのです。全てを実践したなら、その利益の大きさたるやいかなるものでしょうか。それは自分自身のみならず、世界中に影響を及ぼしていくのです。
第2 のグループ(第2 巻から)では、自分を取り囲む環境や習慣を整え、適切な人生の目標を認識する事によって、確固たる思慮分別を身に付けていきます。この様にシンプルな方法論から始まって、だんだんと複雑な教えに進んでいくのがお釈迦様の教えの特徴です。
第3 のグループ(第3 巻から)では、いかに自分の能力を社会に貢献させるか、いかに自立して社会の迷惑にならないようにするかを説いています。
第4 のグループ(第4 巻から)では、自分の事だけではなく他者の力にもなれる方法を追求していきます。まず第一に考えるべきとされているのが、私たちにとって最大の恩人である両親の事です。配偶者や子供がいるのなら、彼らにも努力と徳を以て恩に報いていかなくてはなりません。また、仕事と家事の両面において自分の責任を果たしていけるようにしなくてはなりません。
第5 のグループ(第5 巻から)では、それまで個人レベルのみで見てきた徳を、社会レベルにまで拡大していきます。既にしっかりとした人格の基盤を築けている人にとっては、社会に貢献していくのもそう難しい事ではないでしょう。一方で、そのレベルに達していない人が社会貢献をしようとすると、却って問題を引き起こしてしまったりするものです。例えば、適切な話し方を知らないままに他者に対して良いアドバイスをしようとしても、相手に貢献するどころか敵を作ってしまう事になりかねません。
これ以後のグループでは、心の清らかさに関して更に突き詰めた内容を扱っていきます。
B-4. 道徳的観点から見た38 の吉祥
本書は、道徳教育の観点からの要求にも応え得るものであると思われます。
以下にその理由を挙げます:
1. 段階性・階層性がある:吉祥経38 項目は、簡単に実践できる内容から高度な内容までを広くカバーしており、また簡単なものから始まって段階を追う事に高度なものに移行していけるように構成されています。まずは処世的な、表面的とも言える実践の教えから始まり、徐々により内的な、微細な内容になっていきます。この段階を順に追って行くと、救いへの階段を上っているような感覚がするものです。愚かな人々と付き合う事を止めれば、同時に賢者達との付き合いがしやすくなります(第1項目)。また、この第1の項目を満たしていけば、第2項目
の「尊敬すべき人たちを尊敬する」に移行しやすいようにもなっています。第1項目を実践していくことで、第2、第3項目の為の下地が作られていくのです。
つまり、それぞれの項目には関連性があるのです。ある項目を学ぶ事で、その次の項目に移行する為の下地が作られていきますので、たった一項目を実践するだけでも、それに関連する様々な項目の下地を築くことができます。例えば、「賢者と親しむ」という項目を実践したなら、彼らから多くの事を学んで大きく前進する事ができるでしょう。優れた人とのお付き合いは、あらゆる美徳の源となるものです。一つの項目を実践していくだけで、やがては全ての項目に通じていくことができるのです。それぞれの項目は緻密に設置されており、確実に一歩一歩前進していけるようになっています。他者と手を取り合って、社会的にも精神的にも前進していくことができます。これは科学に於ける「自触媒作用」や、物理の「正帰還」と類似しているとも言えます。最もシンプルな内容から始まる吉祥経38 項目による自己向上の道は、螺旋階段を昇る様に「涅槃」、つまり仏教における最終的な精神的ゴールに突き進む道なのです。
2.「自触媒」的である:ある吉祥を身に付けたり実践したりすることで、それに反応して他の美徳も現れ出し、更に高度な段階に進む為の触媒となっていきます。
3. 統括性がある:他の精神的価値観をも包括し得る懐の広さを持っています。
4. 俯瞰的な視点がある:吉祥経は、目には見えない深い部分での原因と結果の繋がりをも視野に入れた上で、望ましい結果と社会全体の道徳的発展が望めるような方法論を説いています。吉祥経の各項目は、主観を排した社会倫理のチェックリストにもなります。これにそぐわない社会倫理は、一見社会にとってプラスの様に見えても実は個人の利益にしか繋がらないものであったりします。もちろん、個人の性格や成長を測る上でのチェックリストとしても使えます。
5. あらゆる関係性をカバーしている:人間関係を、個人レベルから家族間、職業に於けるものから共同社会、社会全体レベルまでカバーしています。人間関係で成り立つこの社会の在り方に関する包括的な視点を与えてくれます。
6. 無差別的・普遍的である:ここで示されている美徳は、男女、社会的地位の違い、在俗者か修行者か等を問わず、誰にでも当てはまる普遍的なものです。
7. 複雑な状況にも当てはめられる:吉祥経の38 項目は、倫理の「手段目標分析」モデルとなります。吉祥経の項目は手段目標分析の固定的な次元を超越し、複合作用的要素にも対応できるようになっています。手段と目標のみを追求していく方法では、複雑でファジーな状況に対処しきれません。例えばマッチの発火作用について考える時、単純にマッチのみが炎を起こす「手段」であると言い切れるでしょうか。そこに酸素と摩擦が無くしては発火は起こり得ませんし、摩擦が十分でなくても発火には至りませんが、それでもマッチを「手段」と定義しても良いでしょうか。真空状態でマッチを擦ってもマッチは「手段」たり得るでしょうか。酸素は光合成の「目標」でもあり、同時に発火の「手段」ではないでしょうか。「悪循環的」に変化していく現象について、固定的な倫理はどの様に対処していくのでしょうか。こんな単純な命題を解くことにすら苦労する手段目標分析では、社会の複合作用的な有り様に当てはめることなどとてもできません。
残念ながら社会問題のほとんどは悪循環に陥っており、倫理を適用する事が難しい状態になっています。吉祥経の項目が手段目標分析であるかどうかと言えば、そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。38 項目は、どれも実践すれば社会発展に貢献できるものです。これらの項目が存在する事は、その事自体が社会貢献に繋がっているのです。また、健全な目標を持っていれば、不健全な手段を正当化するジレンマとも戦わなくて済みます。
8. 実践的な眺望を持ちやすくする:吉祥経の項目の実践は、堕落した要素の影響に対して発展的な要素に置き換えていく為にも使えます。まず下向きのスパイラルを確認し、それを上向きのものに置き換えていくのです。社会問題を解決していく為には、それぞれの腐敗した要素に38 項目の内容を置き換えていけば良いのです。この様に吉祥項目を実践していけば、誰かに責任を押しつけていくよりも明るい結果が得られます。ほんの一項目が実践できただけでも社会にも良い影響を及ぼせますし、次の項目にも進みやすくなります。最終的には38 項目全てが社会に浸透するようにする事が目標です。
9. 垣根を越えた価値を持つ:吉祥経は、道徳規律に則った行動や行為のみに焦点を当てるものではなく、社会や環境、家族、教育、コミュニケーション、そして精神との関わり方についても関わってきます。これは人類全てに共通する道徳財産として共有されるべきものだと言えるでしょう。
10. 対立要素が明確である:吉祥経の項目は、その対局にある要素も浮かび上がらせてくれます。つまり、腐敗を予兆する「凶兆」とか「社会の堕落」とでも呼ぶべき要素のことです。発展の無いところには腐敗が生じるものです。社会問題の根底には、これら38 項目と対局の要素がそれぞれ織りなす複合的な害悪が見られ、これが悪循環を形成して腐敗に繋がっており、これは放置すればする程にどんどん拡大していきます。これは熱力学に於ける熱発散時のエントロピー減少にも例えられます。
以上が本書の特徴のまとめです。これより、38 の項目それぞれの解説に入ります。
吉祥経の第1グループ
吉『不健全な要素から手を引くこと』
善良さは、無条件でポンと与えられる類いのものではありません。善い行いをしている人を模範とするによって、初めてその一部が得られるのです。そのように良いモデルを真似たりその人の教えを聞いたりする事の他、その人よりも善良さが劣る人への批判を聞くことでも自己の善良さを鍛える事ができるでしょう。善良さはある種の食料のようなものであり、私たちはその栄養によって人生やこの世界に対する捉え方を養っていきます。私たちは始め、善良さとは何かを知りません。ある人があれが良い、これが良いと言うかと思えば、別の人は全く違うものを良しとしているので、何を信じれば良いのか解らなくなって混乱してしまいます。
ところが、なぜそれらが良いのかと質問してみると、大抵の人は自分自身よくわかっていないようなのです。このような有様ですので、たとえ良い事をしようと思っても、何が善で何が悪なのかもわからない状態で自分の行動を決定していかなくてはならない状態に置かれてしまうのです。しかし、たとえ善悪の区別ははっきり付かなくても、日常的に善行を多くしている人と、悪行ばかりをしている人とでは何かが違うという事はなんとなく分かるものです。このグループの第1項目ではまず、日常的に悪い行いをしている人の見分け方が説かれ、2項目目ではそれらの人々との付き合いを避ける事によって善い方向に向かうべき事が説かれています。そして3項目目では善行をよくしている人を尊び、彼らの美徳と自分自身とを照らし合わせる事で自らの欠点を発見していくべき事が説かれています。つまり、第1のグループの内容をまとめると、「友人の選び方」について説いている事がわかります。
吉祥その1:愚者と付き合わない
A. イントロダクション
A-1. 最も肝心な第一歩
吉祥経の内容は、全38 項目どれも欠かすことのできない重要なものではありますが、この第1項目目こそはその他37 項目全ての根本となる、肝心要の項目です。これは家に入る際の玄関口とでもいうべき部分で、これを欠けば門前払いとなって、一生家の外で過ごす事になります。この「愚者と付き合わない」という項目こそは、これから始まる長い旅路への第一歩であり、この一歩が踏み出せなくては、旅が始まる事もあり得ないのです。
B. 見識:その重要性と編成
B-1. 見識を調える事の重要性
メチャクチャな人生を送りたいと望んでいる人はいないでしょう。常に進歩を感じ、達成感や成功を味わっていたいと誰もが思っている筈です。ところで、この「成功」「進歩」「達成」をどの様に定義するかによって、人生の指針が全く異なったものになっていきます。例えば、ビジネスマンは金銭を基準に「達成」を考え、なるべく多く稼ごうと一生懸命に働くでしょう。
犯罪者なら、厳重極まりない金庫を破ってみせること、法の目をあらゆる手段を使ってかいくぐり、なるべく多くの物を掠め取ること等を達成目標にし、計画の準備の為に多大な時間をかける事も厭わないかもしれません。犯罪者といえども不正に満ちた人生を送る事を必ずしも望んではいないのかもしれませんが、犯罪に対しての罪悪感は比較的薄いと思われます。「人生の成功」の定義の違いが人の人生にこうも大きな影響を及ぼすのは、その定義によってその人の中での常識が決定され、これに従って物事を判断し、またその判断に従って発言・行動をする様になるからです。その様に形作られる常識を吉祥経に照らし合わせると「見(見識)」と呼ばれます。私たちは経験や状況の一つ一つをこの見識に照らし合わせ、それが自分にとって有益であるのか有害であるのかを判断しています。
B-2. 見識は無条件に得られるものではない
見識は、自分の人生経験を吟味していって初めて得られるものであって、これは本から学んだりお金で買ったりダウンロードしたり暗記して身に付けたりという事のできる類いのものではありません。これは他者と直に交流する事のみによって得らるものなのです。これは言葉で伝えられる様な能力というよりは、模範的な人を見て自分で学んでいくものだと言えます。こうした見識は簡単に得られるものではありませんが、自分が模範的な人になる為に持つべき必須の条件であると言えます。
B-3. 見識を養う為の2 つの要素
見識を養うに当たって重要な項目を大きく分けると以下の2つになります。
1つ目は家族や友人など、私たちを取り巻く人々の存在です。2つ目は自分自身の在り方で、これは「自分自身の教師たる能力」(yonisomanasikāra)とも呼ばれます。他者からのアドバイスを受けたら、相手が善人であろうが悪人であろうが、それを自分自身で吟味した上で従うのか従わないのかを判断しなくてはなりません。適切な見識を持っていれば、たとえ誤りを含んだ情報を与えられたとしても、それを見越した上で正しい判断を下していく事ができるでしょう。反対に見識の浅い人は、正確な情報を与えられていても誤った結論に至ってしまうものです。
大抵の場合、私たちはまず他者との関わりの中で見識を身に付けていくもので、自分一人で適切な見識を得て正しい判断を下していける様になるのはずっと後の事です。というのも私たちは最初、どの様な判断が適切で、どの様な判断を避けるべきかという基準を全く持っていないからです。その段階にある時、私たちは周囲の人々の在り方に非常に大きく左右されます。彼らからの影響が、私たちの一生の在り方に大きな影響を及ぼしていく事もあります。模範的人物からの影響は、私たちの見識に一生ものの良い影響力を及ぼしてくれます。反対に、悪いモデルからの影響力によって、一生ものの有害な見識を持つようになってしまう事もあります。
C. 見識獲得のプロセス
C-1. 他者の長所のみを自分のものにする
他者と付き合うという事は、まるで見識の優劣を競う綱引きをしている様なものです。見識の善し悪しを弁えない状態で2 者の見識を交わらせた場合、「伝染」とでも呼ぶべき現象が起こり、密度の高い方が密度の低い方を呑み込んでいきます。高い見識を持った人と、それよりも劣る見識を持った人とが交わった場合、前者が後者に影響を及ぼしていくという事です。
同様に、悪しき見解を強く持っている人が、やや低級な見解を持った人と接した場合にも、前者の影響が後者を呑み込んでいきます。それなりに経験を積んだ人は、そう簡単に相手に迎合しない姿勢を持ちがちですが、相手に長所や良い見識を見出せたなら、心を開いてそれを自分の中に取り込む様にしましょう。反対に、短所や悪い見識に関しては、それを取り込んで身に付ける事の無い様に注意していく必要があります。この様に、相手の在り方とその見識を最善の力量を尽くして吟味し、良いものに関してはこれを取り入れ、悪いものには影響を受けないように努めていく事が大事です。こうしていく事で、自分の美徳を損なう事無く、他者と有意義に付き合っていく事ができるようになります。こうした人付き合いを、風邪を引いて熱がある人のお見舞いに行く事に例える事ができます。お見舞いに行って彼らと話をしたり世話をしたりする分には問題ありませんが、彼らがくしゃみをし始めたら要注意というわけです。
病気には様々な種類のものがありますが、中にはあまりにも危険な、その病気に罹っている人との関わりを一切避けた方が良いほどの深刻なものもあります。例えばペストなどは感染力が大変強いので、これに罹った患者は他者との一切の接触を避け、隔離病棟で治療を受けなくてはなりません。これが動物に発生した場合には、防疫措置を取らなくてはなりません。見識に関しても同様で、非常に強い感染力を持った悪しき見識というものがあり、これに関わるとちょっとやそっとの免疫力や分別を持っていても防ぎきれずに感染してしまうのです。健全な見識を持っていても、悪しき見識に乗っ取られてしまう事があるのです。いわんや、子供たちや人生経験の浅い人などはひとたまりもありません。こうした伝染病患者の存在こそは、吉祥を得るに当たっての根本的かつ最大の障害となります。吉祥経の言う「愚者」とは、こういった病気を持った人々の事を指しているのです。
D. 愚者について:邪見の感染にご用心
D-1.「愚者」の定義
愚者とは、堕落した人、もしくは心の弱い人を指します。日頃、不健全な事を考え、話し、実行する事で心が弱くなっていきます。不健全な行いすらどうとでも正当化できると考える非常識な人たちもいますが、彼らの心は安定性を欠き、コントロール不可能な状態になっているのです。こうした人たちは大変危険な存在であり、「愚者」という呼び名すら生ぬるい程です。愚者というと周囲に対しては大した害も無い様な感じがするかもしれませんが、そうでは無いのです。また、「弱い」という言葉も不適切に思えるかもしれませんが、彼らの心は重病人の体調の如くに弱っているものです。知力や思考力の点では彼らの強さは恐れるに足らないかもしれませんが、彼らの病気は非常に危険だという事を決して忘れてはいけません。
D-2. 4種類の人間の強さ
人間の持ちうる「強さ」には以下の4 種類があります:
1. 肉体の強さ:これは人それぞれで、生まれ付き強い人もいれば弱い人もいます。五体満足で頑強な肉体を持っている人は、この第1項目の「強さ」を具えている事になります。
2. 知識の強さ:これは教育と人生経験によって形成されていきます。教育で得たものを有効に使えるならば、その人はこの第2項目の「強さ」を具えている事になります。
3. 思考力の強さ:ある人々は、皆と同じ教育を受け、同じだけの知識を与えられたとしても、それらの知識を人よりも深く吟味していく力を持っています。かと思えば、知識は豊富に持っていてもそれらについて深く吟味するだけの思考力を欠いている人もいます。エンジンの修理法を勉強したのに、壊れたエンジンの前で何もできずに座り込んでしまう人などがこれに当たります。なぜその人がメカニックになったり、エンジンの専門家になったりもできずにただ一日そうしてぼーっとしているのかというと、その人が知識は持っていても、それを突き詰めて使っていくだけの思考力を具えていない事が原因なのです。知識の強さに思考力の強さが結びついて初めて、第3項目の「強さ」を持っていると言えるのです。
4. 徳の強さ:思考力の強さと、自分がしている事を把握する気付きの強さを持ち、知識と思考力を同時に使って自他の為に利益をもたらす事の出来る人は、第4項目の「強さ」、すなわち徳の強さを持っている事になります。
これらの強さを持っていたとしても、その使いどころが誤っていた場合、本来の力を発揮できないものです。例えば、頑強な肉体に恵まれた上に博士号を持っているような人でも、適切な思考力を欠いていれば、その知識を悪用して犯罪に走るようになります。この様に、4つの「強さ」の内のいくつかに恵まれていたとしても、「愚者」になってしまう可能性はありますし、本来の能力を発揮する事はできません。これら4つの強さの内、愚者にはどうしても得られない項目があるのです。4シリンダー式の車なのに、3本のシリンダーしか機能しなかったなら、その車は使い物になりません。4本全てのシリンダーが機能して、初めて役に立つのです。シリンダーの内の一つが機能しなかったなら、他の3 つもダメになるのを待つよりも、さっさと修理に出した方が良いでしょう。
つまるところ愚者の何が「弱い」のかといえば、善行を為すための能力が弱いのです。彼らが私たちの見識に及ぼす悪影響と、彼らの「弱さ」について理解したなら、次にはいかにして彼らから身を守るかという事が課題になってきます。まずは、愚者を見分けられるようにならなくてはなりません。彼らを見分ける事ができれば、その影響から身を守るのもたやすくなってきます。
E. 愚者の見分け方
E-1. 外見からは判断できない
外見からは相手が愚者であるのかどうかを判断することはできません。相手の内面を見て判断していくしかないのです。性別、年齢、家柄、国籍、コネ、知識、職業、専門知識や財産などをもってこれを判断してもいけません。愚者は常日頃、身体と言葉と行動の上での悪行を為しているものですが、これらの根源は内側にあるもので、修行が足らず見識がまだ未熟で不確かな段階にある私たちにはこれを見抜く事がなかなかできないものです。性別、年齢、家柄、国籍、コネ、知識、職業、専門知識や財産等の要素は、心の様相をありのままに示すものではありません。人々の真の在り方を理解しようと思ったら、こちらから関わっていく中で判断する他にありません。
E-2. 愚者の見分け方
他者の心を読む能力の無い私たちには、ただ他者の言葉や行動をもって相手の心を判断していくしかありません。愚者がいかに緻密に善人のフリをしていても、やがて必ずほころびが見えてくるものです。
以下がそうした「ほころび」に相当する5 項目です。
1. 悪行を勧めてくる
愚者は悪行を勧めてくるのみならず、他者が従いやすい様にみずからその悪行の模範たろうとしてきます。なんやかんやと理由を付けては仕事を怠けようとし、同僚にも同じようにすることを勧めたりします。
2. 自分とは関係の無い事にも首を突っ込む
清掃員の本来の役割はオフィスをきれいに保つ事ですが、もし仕事もそこそこに廃棄書類を漁って情報収集など始めたとしたら、その人は間違いなく愚者でしょう。また、学生の本分は学問をすることですが、代わりに反政府デモなどを始めたなら、その人はいかに教養があっても愚者と言わざるを得ないかもしれません。
3. 不適切な事ばかりを好む
愚者は正しい事、適切な事が大嫌いです。一方で火遊び、ドラッグ、ギャンブル、仕事の妨害等、他者に苦しみをもたらすことは大好きなのです。このような人は、たとえ聖職者になったとしても、教団に分裂をもたらします。「天使とウジ虫(P55 参照)」のお話に出てくるウジ虫のようなものです。
4. 正しく話しかけても怒る:
ある母親が外出しようとしている娘に「もっときちんとした服を着ないと恥ずかしいですよ」と忠告すると、娘はこれが今風なのだと言って激しく怒り、適切な忠告を与えた母親に対して荒々しい言葉をぶつけたとします。また、ある父親が試験を控えた息子に「遊びに行かずに勉強しなさい」と言うと。「自分だって若い頃は遊んでただろ?」と罵ったとします。明らかに自分に非があっても、他者にそれを咎められると激しい怒りをもって応対する人がいます。これこそ愚者の証です。愚者はあたかも全身に生キズを負っているかのようにデリケートで、ちょっと触れられただけで大騒ぎします。正しい事を突き付けられても痛がりますし、中には目が合っただけで大騒ぎするような人もいます。
5. しきたりや規則を守る事を嫌う:
愚者は地域のしきたりはもちろん、国の法すら軽視します。その様な人を見かけたら、99%の確率で愚者だと思って良いでしょう。もし法が無かったなら、それらの愚者はやりたい放題の悪事を働いていることでしょう。法があるからこそ彼らの悪事が抑制され、裏でこそこそとやるしかなくなっています。それは良いのですが、その為に彼らの悪事が私たちの目には触れ難くなっていますので、愚者を見分ける基準としては、この項目以外の
4 項目を参照した方が良いでしょう。
これら5 項目の内、いずれか一つでも該当する相手と接する際には、細心の注意を払うようにしましょう。
E-3. 愚者の取る16 の行動
表面上は友人であるかのように装って近づいてくる人が、その実は愚者であるというケースがあります。お釈迦様はそうした人たちの事を「偽りの友人」(mittapaṭirūpaka)と呼んで4 種類に分類し、更にそれぞれが取る4 種の行動について言及し、これら計16 種類の行動を取る相手に気を付けるようにと説いていました。
まず、4 種類の「偽りの友人」です:
1. 金銭目当ての友人(aññadatthuhara)
2. 空約束をする友人(vacīparama)
3. やたらとおだてる友人(anuppiyabhāṇī)
4. 破滅の道に誘ってくる友人(apāyasahāya)
1. 金銭目当ての友人が取る行動:
1. 他者の物品を私物化しようとする
2. 僅かな労力による一攫千金を企む
3. 同じ脅威にさらされている時のみ、他者と協力する
4. 自分にとって得になりそうな相手とのみ付き合う
2. 空約束をする人の取る行動:
1. 既に入手不可能なものに関して「貴方にあげられなくて残念だった」などと言う
2. まだ持っていないものに関して、くれると約束する
3. 空約束で気を引こうとしてくる
4. 手伝いを頼むと、必ずなんやかんやと言い訳をして断ってくる
3. やたらとおだてる人の取る行動:
1. 他者の悪行に対してへつらう
2. 他者の善行に対してへつらう
3. 面と向かっておだててくる
4. 陰で噂話をする
4. 破滅の道に誘ってくる人の取る行為:
1. 呑み友達になる
2. 夜遊び友達になる
3. 頻繁にゲームやショーに誘ってくる
4. ギャンブルに誘ってくる
愚者たちは、これら16 の行為でもって自分たちの無責任さを露呈してきます。これによって私たち個人に破滅をもたらすのはもちろん、社会全体を取り返しの付かない退廃状態に導いていきます。これら16 の行動のいずれかでも目にしたら、その人にはよくよく注意するようにして下さい。
F. 愚者からの影響を避ける
F-1. 愚者とは距離を置く
これはタイの古い諺です:
『危険なものからは安全な距離を取ること。猟犬からは一尺離れ、猿からは一間離れ、そして愚者からは万里十万里離れること』
先にも触れましたが、「邪見」の様な危険な伝染病にかかった患者からは、身を離すより他に措置が無いのです。これは物理的に相手から身を離すというよりは、彼らとの精神的関わりを避けるという意味だと思って下さい。彼らとの交友を深める事を避けていくことで、精神的な
距離を保つ事ができます。
F-2. 愚者との付き合いの定義
愚者との交流とはどのようなものでしょうか。以下に 7 段階に分けた定義を挙げてみます。
1. 出会いの段階:
これは出会ったばかりの、付き合いが浅い段階です。まだお互いの事をよく知りませんので、一緒にいても特に楽しいとは感じません。
2. お近づきになった段階:
これは愚者と親しくなってお互いに交流し、物の貸し借りをしたり世間話をしたり遊びに出かけたりするようになった段階です。
3. 親密になった段階:
これは愚者ともっと親しくなり、お互いの相性がバッチリだと感じるようになった段階です。相手の好きなものは大体自分も気に入るようになります。
4. 尊敬を感じる段階:
やがて、愚者の能力(ギャンブル等の)に対して憧れを持つようになり、彼らと解り合い、彼らを模範としていけて幸運だと感じるようになります。
5. 道徳規範とする段階:
長期に渡って愚者に憧れていると、彼らの考える事は全て正しいと思うようになります。
6. 共同体になる段階:
愚者と長期に渡って意見を共有していると、やがては彼らと行動を共にし、同じ生き方をしたいと思うようになります。
7. お互いに影響し合い、共感しだす段階:
交友の最終段階になると、対象の愚者と完全に一体化してしまいます。ここまで来てしまうともう後には引き返せず、ずっと愚者の影響を受け続けます。
以上の項目を見て、もし自分が既に愚者の影響下にあると思った人は、その危険性をよく認識して下さい。愚者の性格を持った人との付き合いは、ほんの些細なものであっても危険なものです。自覚の無いままに、ふと気が付くと愚者と深く関わっていた、という事がよくあります。
F-3. 日常生活において愚者を避ける方法
日常生活を送る中で出会う愚者を避ける為に、以下の点に気を配るようにして下さい。
1. 悪行を避け、「破滅の道」には手を出さない:
仲間内の賭けトランプに参加したり、または観戦したりするくらいなら害は無いだろう等と判断しないで下さい。そうした事に初めから一切関わらない様にしていれば、ひどい目に合って泣く事もありません。目覚ましをかけておいてもきちんと起きられない様な人は愚者になりがちな傾向がありますが、そこはグッと踏み留まって克服し、どんなに些細な悪行も為さない様に気を付けていきましょう。
2. それまで持っていた悪しき習慣の一切をやめる:
過去に持っていた悪い習慣の一切を、どんな些細なものであっても繰り返さないようにします。それらの事に関する話題に参加することすらやめましょう。
3. それまで持っていた良い習慣を続けていく:
過去の過ちを何度も振り返って後悔したり、罪悪感を感じたりしていく必要はありません。今日この時から布施、持戒、禅定、読経を始め、ずっと継続していけば、過去の在り方によって受けた傷はやがて治癒し、代わりに良い姿勢をもって生きていくことができるようになるでしょう。
4. 愚者とどうしても接する必要がある時には:
愚者を避けたいと願っていたとしても、どうしても付き合わざるを得ない状況に置かれることもあるでしょう。例えば、自分の上司が堕落した性格の持ち主だったというような場合です。その上司を避けていては、クビになってしまいます。このような場合にはどうすべきでしょう
か。なんでもかんでもその上司の言う通りにしていれば、やがては自分自身も堕落してしまいかねません。こうした状況への対処方に関する古い言い回しがあります。『焚き火に接するように接する』です。焚き火に近寄り過ぎれば火傷してしまいますが、遠ざかり過ぎても寒い思いをします。愚者との付き合いもこれと同様、近過ぎず遠過ぎずで接していくのが良いでしょう。
5. 愚者を導き改善していけるだけの力量が確実にある場合にのみ、愚者と接する:
水に飛び込んで溺れている人を助けられるのは、自分自身泳げる人のみです。泳げもしないのに水に飛び込んでも、溺死体が一つ余計に増えるだけです。愚者を導き救っていけるかどうかは、自分にそれだけのしっかりとした徳が具わっているどうかにかかっています。この点で自分の力量が足りていないと思うなら、たとえ相手が自分の肉親等であったとしても距離をおくべきです。
何度忠告しても耳を貸さない友人などには一旦忠告をやめ、彼らがその過ちの報いを受けて苦しんでいる時など、耳を貸しやすくなっている時に再び話をしてみましょう。相手にそれなりの善良さが見られる場合には、時折説得して今よりも堕落させない様に試みてみるのも良い
でしょう。あまり厳格な態度は取らず、自分の限界を弁え、もし自分の力量ではその相手を救えないと判明したなら、距離を離して自分の身を守るようにして下さい。
F-4. 交際のあり方
交際にのあり方には、以下のような段階が考えられます:
・共同生活:一緒に寝食を共にしたり、仕事をしたりする
・受容の関係:相手と結婚したり、自分の子供として養ったり、部下や義理の家族として接したりする関係です。この関係が始まった段階で、相手の事に責任を持つようになります。
・与える関係:相手の事に責任を持つ様になった次には、彼らに与える段階になります。何を与えるのかというと、注意や賞賛、励ましや寝食の場、給料などです。
これら全ての関係が交際と定義されます。
もし上記いずれかのレベルで愚者と交際していると気が付いたなら、損害が酷くなる前に手を引くべきです。
F-5. 愚者の種類
自分には十分な見識が身に付いていると思い込むと、友人の選び方に関するこの吉祥経項目その1の内容を軽んじてしまう事があります。どれだけ経験を積んで成熟していようとも、一生を通して常に気を付けていなければならない最も危険な愚者というものが存在します。それは誰かというと、自分自身の内面にいる「内なる愚者」です。
この世には、2 種類の愚者がいるのです。すなわち外界の愚者と、この内なる愚者です。内なる愚者は、ちょっと考え直した方が良いような行為を易々と正当化して後押ししようとする、いわば「悪魔」の様な存在です。これに取り付かれるとおかしな思考が頭に浮かんできますので、私たちはこれを受け容れない様にしなくてはなりません。また、自分の愚者を見分ける能力を過信しないこと、影響を受けやすい子供達の交友関係に気を付けていくことも重要です。きちんとした学校や教師を選ぶ事でも、子供を愚者との付き合いから守り易くなるでしょう。この事に関しては吉祥その13 の説明でより詳しく説明していきますが、吉祥経の知識を参照してちょっと気を配っていくだけでも、子供達の明るい未来が期待できるでしょう。子供が薬物中毒等に陥ったりしてから泣いても遅いのです。
G. 参考のお話
G-1.『天人とウジ虫』
昔々、あるところに二人の仲良しがいました。一方は日頃から善行を愛し、もう一方は闘鶏、闘魚のギャンブル、飲酒などの良からぬ行いばかりをしていましたので、人々は二人がどうして友達になれたのかと首をかしげていたものです。
徳の劣る男が商売をやればニセモノや盗品ばかりを扱い、教師になったかと思えば、生徒達に手を抜く方法や法の目をかい潜る方法ばかりを教えていました。
二人の性格は根本的に違っていたにも関わらず、お互いに対する態度を変えることなく、生涯ずっと仲良しでいました。善良な男が亡くなると、彼は天界の住人、つまり天人に生まれ変わりました。一方、悪いことばかりをしていた男はトイレのウジ虫に生まれ変わりました。
友人はどこに行ったろう、と気になった天人は天界を隈無く探して回りましたが、友人の姿はどこにも見あたりませんでした。それでは、と人間界を探してみましたが、友人はやはり見つかりません。まさかと思い、それよりも下の領域を探してみると、ウジ虫になった友人の姿が
見つかりました。
天人はどうすれば友人を救えるだろうと一生懸命に考え、慈悲の心を以てトイレの悪臭を我慢しながら便器にかがみ込むと、人間だった時の姿に変化しました。
天人が「友よ、僕の事がわかりますか?」ときくと、「ああわかるとも。前世では大の仲良しだったじゃんか」とウジ虫が答えました。
「おおウジ虫さん、ご覧の通り、私は天人になったんですよ。今日私はあなたを天界に招き、天人の仲間入りをさせてあげたいと思ってやってきたんですが、これには一つだけ条件があるのです。それは、今後戒律を一つも破らずに守っていくという事です。善良な事のみ考え、善行を積んでいればすぐに天人になれますよ」
「で、天人になると何かいい事があるのかい」と、ウジ虫がききました。
「思考しただけで、その望みを実現させる事ができるようになります。お腹が空けば、天人の食べる醍醐の事を考えるだけで、実際に醍醐が出てきますよ。衣装の事を考えれば、天人の衣が出てきます。住居の事を考えれば、一瞬で天人の住居が出てきますよ。ただ意識するだけで、無数の素晴らしいものが眼前に現れてくるんですよ」
「なんだ、その程度じゃあ天人になんてなりたくないなあ。ウジ虫のままでいいや。ごくろうさん」
「えっ、どういうことですか?」と天人は訝りました。
「天人っていうのは、望みを叶える為にいちいち考えなきゃいけないんでしょう? ウジ虫をやってれば考える間でもなく、汚水の中を漂ってるだけで口の中に食料が入って来ますし、快適そのものですよ。という訳で、僕はウジ虫のままで結構。お気持ちだけ有り難く頂いておきま
すよ」
救いようのない愚者とはこういうものです。
G-2.『臭い魚を包んだ葉っぱ』
お釈迦様による譬えに、「腐った魚を葉っぱで包めば、その葉っぱも臭くなる」というものがあります。
G-3.『宮殿の隣のあばら屋』
愚者と付き合えば、自分がどれだけ優れていたとしても「まるで宮殿の隣にあばら屋を建てるようなものだ」という古い譬えがあります。隣のあばら屋が火事になれば、宮殿の防火対策がどれだけしっかりしていても一緒に 焼け落ちてしまうのと同様に、善良な人も愚者と付き合う事で破滅に向かってしまうのです。
G-4. カッサパ尊者の庫裏が愚かな弟子に焼かれた話2
お釈迦様の時代、完璧な徳を具えたカッサパ(迦葉)尊者という高僧がいました。カッサパ尊者は他の高僧たちをも含むあらゆる人々からの尊敬を受け、お釈迦様の右腕のアーナンダ尊者等からも絶大な信頼を得ていました。
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2「クティドゥーサカ・ジャータカ」(Kuṭidūsaka-jātaka:JA.iii.71-74)
当時は古参の僧が新参の僧を弟子にして教育するしきたりがあり、指導者としての力を高めるために、あえて大勢の弟子を取る古参僧もいました。カッサパ尊者も 3 〜4 人の弟子を取ったのですが、そのうちの一人のウルンカサダッカという弟子が大変困った人物だったのです。食
器を洗う為の湯を沸かすという仕事を割り当てられると、この責務を全く果たさずに他の人に押しつけておいて、カッサパ尊者の前ではあたかも自分がやったかの様に見せかけるのでした。
その他何をやらせてもその調子で、托鉢に行けばカッサパ尊者の名前を出し、「尊者はこれとこれを所望されている」などと言ってその食物を用意させては、それを自分で食べていました。
この事を知ったカッサパ尊者は「その様に不誠実でいるなら、僧侶でいる意味が無いでしょう。もっと精進しなさい」と諭しました。
尊者はその後も度々その僧侶を諭しましたが、その事によってその僧侶は自分は不当に扱われている、差別されていると妄想するようになりました。尊者に諭されれば諭される程に彼の被害妄想は高まっていき、やがては尊者に復讐してやりたいと思うようになりました。ある朝彼は托鉢をこっそり抜け出すと、カッサパ尊者の庫裏を焼き払ってしまいました。思いやりを込めて彼を諭していたカッサパ尊者に対するこの様な仕打ちこそ、愚者ならではのものです。カッサパ尊者が托鉢から戻り、自分の庫裏があった場所が灰になっているのを発見した時には、その僧侶は既に逃げ出していました。
この話を聞いたお釈迦様は、その愚かな僧侶は現世のみならず、過去世でも尊者に対して害を為していたというお話をしました。
過去世のカッサパ尊者はウグイスで、その愚者は同じ樹に住むサルでした。ウグイスは雨風を防ぐ為の巣をせっせと作っていました。ウグイスはサルに「 雨風や日差し、埃から身を守れる住居を作りなよ。君には人間並に器用な手があるし、僕がくちばしで巣を作るよりも遙かにた
やすい事だろう」と度々アドバイスしていましたが、サルは全く相手にしませんでした。そしていよいよモンスーンがやってくると、ウグイスが巣に入って雨風をしのいでいるのに対し、サルはずぶ濡れになって泣いているのでした。そんなサルを気の毒に思ったウグイスは、サル
がずぶ濡れの辛さを理解した今こそ、住居を作るように勧める最高のタイミングだと思いました。ウグイスは巣からひょっこり頭を出すと、「雨風や日差し、埃から身を守れる住居を作りなよ。君には人間並に器用な手があるし、僕がくちばしで巣を作るよりも遙かにたやすいこと
だろう。この雨がやんだら、すぐに取りかかりなよ」と言いました。
サルは「確かに、僕が住居を作ろうと思えば簡単にできる。そう、僕の手は確かに人間並みに器用なんだけれども、人間ほどの知能はないんだよなあ」と答えました。ウグイスは「君はおかしな奴だな」と言いました。「君はこれまで他者の巣をいたずらに壊したりしながら過ごし
ていながら、いざモンスーンがやってくると、君だけが住居無しに過ごしているなんて。これは他者に対してそういう意地悪をした事の報いなんじゃないかな。君はもっと自分の性格を磨かなきゃ」
この批判に、サルは怒り狂いました。ずぶ濡れになった上、自分は巣の中でぬくぬくとすごしている鳥如きに
侮辱されてたまるかと思ったのです。サルは樹をスルスルと昇っていくと、ウグイスの巣を粉々に打ち壊してしまいました。
彼はサルの時にはウグイスの巣を破壊し、人間に生まれ変われば今度は親切な師匠の庫裏に火を放ったのです。これこそ愚者の行為であり、この様なタイプの人間にはよくよく気を付けなくてはいけません。
吉祥その2:賢者と親しむ
A. イントロダクション
吉祥経38 項目の内の2 番目は、いかに不健全な事柄から距離を置き精神的進歩を続けていくかという事に関する項目です。この段階では、見識も気づきもまだそれほどは養われておらず、「賢者」を自認できる段階にはほど遠い状態でしょう。しかし、賢者たる他者を認めて彼らと親しみ、彼らの見識の影響を受けて学んでいく事はできます。
A-1. 知識と智恵の違い
賢者とはつまり、智恵のある人です。この項目についての解説を始める前に、まずは「智恵」と「教養」との違いを定義しておかなくてはなりません。ここでいう「智恵」とは、私たちの人生に於ける真の価値とは何か、という問いに関する、前の項目で説明した「愚者」の持つものとは対極の見識の事を指します。実は「教養がある」という事も、ある吉祥項目( 第7 項目) に相当している素晴らしい事ではありますが、この第2 項目に於ける「賢者」はパーリ語では「パンディタ」(paṇḍita)と表記され、教養ではなく「智恵」のある人の事を指しています。つまり、有名大学を卒業すればこの意味での「賢者」になれるのかというと、そうではないのです。優れた学位を取得して仕事にそれを活かせば、成功して人々からも尊敬されるかもしれません。しかし、そうした成功者がいる一方で、同様の学位を持ちながら悪事を働いて獄中で過ごす事になってしまう人たちがいます。この事から、そうした教養が与えてくれるのはあくまで「俗世間に於ける知識」であり、智恵とは似て非なるものであるという事が分かります。ここで言う智恵とは、それを身に付けていれば少なくとも投獄される様な事にはならず、現世と来世以降における健全な利益を保証してくれるもの、つまり「精神的な知恵」とでも呼ぶべきものを指します。今日における最高の「賢者」とは、俗社会の知識と精神的な知恵
との両方を具えた人だという事になるでしょう。
B. 愚者と賢者の違い
肉体と心で構成されている点で私たちもともと平等ですが、それでは個人個人の成功の度合いの違いを形成している要素は一体何なのでしょうか。親しくなる事で有益な人と、そうでなくむしろ有害な人との違いは何でしょうか。そうした事はその人の表面的な部分を見ただけでは決してわかりませんので、もっと深い部分を見ていく必要があります。
B-1. 心のあり方でその人を見分ける
人権が重視されるようになった今日、私たちは人権平等の実現の為に心血を注いでいますが、これは簡単な事ではありません。
所得や教育の機会のみが問題となっている場合には、これをどうにか改善して弱者の機会を改善できる様な運動が彼らの助けになるでしょう。しかし、自らの向上を望まない人、社会のルールに従って真面目に生きたいとも思っていない人々に関してはどうでしょうか。犯罪者にも完全な人権が保障されるべきだとし、死刑囚などの保護運動に一生懸命な人たちもいます。しかし、残虐な行いをしたり暴力を振るったりする様な犯罪者たちは、警察に逮捕されているいないに関わらず、既に一般人と同列に考えてはならない存在、つまり「破綻」を抱えた存在になっているのです。彼らも私たちと同様に手足と頭とを持った姿はしていても、その心のあり方は、もはや全くの別物です。何より、第1 項目でもお話した様に、彼らの「邪見の感染力」たるやすさまじく、関わった人達を次々と感染させていくのです。
B-2. 心のあり方が違うとどうなるか
そのような犯罪者と、まともな見識を持った他の人々とを決定的に隔てているものは、心の在り方です。ここでいう「心」とは、脳や神経システムといった西洋的な捉え方ではなく、東洋的の「魂」に近い概念を指すと思って下さい。言いにくい事ですが、邪見を持つ事で愚者が実は自分で自分を苦しめているのだということは、瞑想をしてみない限りなかなか理解できることではないのです。愚者と賢者とを隔てる要素は、その心の質の違いです。愚者の心は混乱に満ちています。心のコントロールができず、盲目状態に陥っているのです。そのため心は鈍くなり、物事を建設的に考える事ができなくなります。その様な心には真実が映りません。これをガラスに喩えるなら磨りガラスの様なもので、このガラス越しに景色を見ようとしても、歪み滲んだ、暗い眺望しか得られないのです。賢者の心はこれとは正反対で、クリスタルグラスの様に澄んだ鮮明な眺望が得られる他、そこに自分自身を映し出して自分の真の姿を知る事もできます。
「心なんてあやふやなものが、自分の運命にそこまで重大な影響を及ぼすものだろうか」と訝しく思っている人もいるかもしれません。しかし実際の所、この世界での私たちのあらゆる行為を決定しているのはこの心であり、これ以上に重要なものなど他にはありません。世界を鏡に映し出す事を考えてみて下さい。鏡は正面にある、ありとあらゆるものを一瞬にして映し出します。また、ほんの手の平大のサイズの鏡ですら、大きな山をすっかり余さず映し出してしまう事ができます。その様に瞬間的、無差別にあらゆるものを映し出せる鏡ですが、その能力を発揮する為にはたった一つ、表面がクリアでなくてはならないという条件があります。心もこれと同様で、物事を瞬時に映し出し、そのあるがままの姿を理解するための能力を発揮する為には、クリアでなくてはならないのです。磨りガラスの様に心が曇ってしまっている人には、どんなことに関しても本当の意味での理解に到達することができません。愚者は心のあり方が歪んでいるので、その目に映るものも全て歪んで見えるのです。そのような状態にある人がどの様な行動を取るのかといえば、「自分のしたいようにする」、つまり歪んだ視点からの常軌を逸した思考、言動、行動を取るのです。反対に、ダイヤモンドの様に澄んだ心を持つ賢者は、世界をありのままの姿で認識し、全宇宙レベルでの適切な見識に沿って行動することができます。これは身勝手な視点しか持たない愚者には、決して真似のできない事です。
心の質を向上させるには、瞑想が一番です。だらけて曇った低レベルな状態の心を持って生きていくことの危険性を認識すれば、瞑想がいかに人生の問題の回避に役立ち、人生の質を向上させてくれるかが実感できるでしょう。
B-3. 常に揺らぐ心
100%完全に人殺しや強盗の性質しか持たないという人は滅多にいないでしょう。同様に、完璧な清らかさを具えた人もほとんど存在しません。完璧な徳を具えた存在といえば「阿羅漢」が挙げられますが、既に阿羅漢になっていらっしゃる方は本書をお読みにならずとも結構です。
極悪人でも阿羅漢でもない、その中間にいる私たちの心にはいつも揺らぎがあります。例えば、ある人がある朝、善意に燃えて僧侶への供物を熱心に準備したとします。この時点での彼の心は賢者のものと同様に澄み切っています。しかし、托鉢僧が通る道に来るまでに機嫌を損ね、自分の子供たちに愚者さながらに怒鳴り散らしました。まもなく通りかかった僧侶に供物を捧げ、聖水を振りかけて祝福してもらうと、彼の心は再び澄んできました。しかし、仕事に出かける時間が近づくと彼の気分はまた沈み、子供たちに「さっさと学校に行け!」と怒鳴ってしまいました。ところが、いざ会社に出かけると機嫌が直り、お給料に見合った働きをしようと一生懸命に働こうとやる気まんまんになりました。そうしてまた賢者の様な心境になっていましたが、ある車に追い越しをかけられると怒り心頭、相手の事が憎らしくて堪らなくなり、その後は一日中気分が晴れませんでした。この人は、ちょっと変わった人でしょうか。このくらいの気分の揺らぎは、心の未熟な私たちにはままある事で、特に精神病ということも無いでしょう。程度の差こそあれ、私たちは皆こうした気分の揺らぎを持っているものです。
B-4. 心の質の分類
心の質を大きく3つに分けると以下のようになるでしょう:
1. 常日頃曇っている(愚者)
2. いつも澄んでいる(賢者)
3. 上記2 者の中間で、澄み切ってもいないし、いつも曇っているわけでもない
世の中の一般的な良識を持った人は、この3 番目に相当します。心の穢れから解放されていない俗人の事を「カルヤーナバーラ」(kalyāṇabāla)と言います。「カルヤーナ」(kalyāṇa)は「美しい」とか「善良な」の意味で、「バーラ」(bāla)が「愚者」ですので、この2 語をくっ付けた「カルヤーナ・バーラ」を直訳すると「善良な愚者」という意味になります。100%賢者的な訳でも愚者的な訳でもなく、状況によって賢者の如くにも愚者の如くにもなる存在です。また、同じく俗人を指す別の呼び名に、「プトゥジャナ」(puthujana)という語があります。「プトゥ」(puthu)は「厚い」、「ジャナ」(jana)が「人」という意味です。
これを直訳すれば、「皮が厚い人」いう様な意味になります。これは知性はそこそこあるものの、「ぶ厚い皮」、すなわち煩悩に覆われてしまっている人という意味です。この「皮」がそれほど厚くなく、理性を持って人の話をしっかり聞ける人は「カルヤーナ・プトゥジャナ」(kalyāṇaputhujana:皮の厚い、善良な人)と呼ばれ、これは煩悩の皮をこそぎ落として内なる智恵に至れる可能性のある人のことです。この「カルヤーナ・プトゥジャナ」に相当する人が、自分の内なる智恵に至る為には、出会う人たちの中から賢者を見分けてその長所を自分のものとし、心の質を向上させていく事が必要となります。
C. 賢者の定義
ここでは賢者を見分ける方法を4 種類紹介しますが、各項目にはそれぞれ重なり合う部分があります。どこに焦点を当てるかのみが異なっていると言えるでしょう。
C-1. その見識によって見分ける
健全な事と、不健全な事との見分けが付くのが賢者の特徴です。具体的には以下の能力を持った人の事を指します:
・何が善で何が悪かを見分けられる
・何が正しく何が間違っているのかを見分けられる
・何が功徳をもたらし、何が悪業をもたらしてしまうのかを見分けられる
C-2. 行いによって見分ける
いつも善良に思考し、話し、行動するのが賢者の特徴です。
これまで賢者の表面的な特徴を述べてきましたが、彼らをよくよく観察してみれば、彼らの中には愚者には無い、以下の様な精神的特徴があることが見えてくるでしょう。
1. 常に善良な思考をする:
貪欲さや怒りから離れ、正見に基づいた思考しか持っていません。完成された賢者は貪欲さの代わりに寛大さを、怒りの代わりに慈しみの心を持ち、しっかりとした正見を持っているものです。
2. 善良な話し方をする:
愚者が自分の知性をひけらかす為にブツブツと中傷の言葉ばかりを吐くのとは正反対の話し方です。賢者の話し方には以下の4つの特徴があります。
2.1. 嘘をつかない:賢者は真実のみを語り、自分の発言に責任を持ちます。
2.2. 対立を呼ぶ様な話をしない:賢者はむしろ、人々を繋ぎ、調和をもたらすような話をします。
2.3. 汚い言葉、荒々しい言葉を使わない:賢者は、どれだけ腹に据えかねる状況にあっても相手を侮辱しようなどとは全く思いません。自分の口から出る言葉に常に気を付けているものです。
2.4. 無駄なおしゃべりをしない:賢者は何かを言いたくなっても、その発言に意義が無いと思えば口にせず、「尊い沈黙」を守ります。
3. 善良な行いのみをする:
賢者は慈悲(mettā-karuṇā)に適った行動を取り、誠実な手段で生計を立て(sammāājīva:正命)、配偶者を欺きません。これと対極にある愚者は殺生、盗み、不倫などに耽ります。
C-3. 賢者の美徳で見分ける
賢者は以下4 つの美徳を持っています:
1. 感謝の心(kataññu):賢者は他者から受けた恩を認識する事ができます
2. 自分を清めていける(attasuddhi):常に悪を離れ、自分を清めようとします
3. 清らかさ(pārisuddhi):他者の悪をも清めようとします
4. 人望(saṅgaha):社会の役に立とうとしているので、人から信頼されます
C-4.「利益」に関する認識で見分ける
吉祥経第1項目の説明で、愚者と賢者とでは「利益」の概念が異なる事を説明しました。仏教では、利益には「現世的な利益」と「来世以降の長期的な利益」の2 種類があると見ます。
C-4.1. 物質的利益の定義3
お釈迦様は、「賢者たる人が現世的な利益を得るための4つの方法」(diṭṭhadhammikatthapayojana)を説きました。タイではこれを「富豪の心臓の4 パーツ」とか、もっと単純に「成功に至る方法」などと呼んでいます。ただダラダラと怠けていても、快適な人生は得られません。老年期を快適に過ごす為には、若くて健康な内に一生懸命働いておかなくてはならないのです。賢者は老年期に自分が何も出来なくなってしまう事を予見し、若い内から財産を蓄積していける様に努めます。
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3 AN.iv.281
今日、現世における利益を得る為には、以下の4 つの徳目が必要とされています:
1. 自主的な勤勉さ(uṭṭānasampadā):これは働く事に対する熱意を指します。賢者はお金が降ってくるのをただぼーっと待っていたりはしません。
2. 金銭管理能力(ārakkhasampadā):自分の稼いだ財産を貯蓄し、管理していける能力の事です。
3. 善良な友人達と親しむ(kalyāṇamittatā):これは吉祥経の「賢者と親しむ」の項目と同一で、ギャンブルや飲み屋等に誘ってくる悪人との付き合いを避ける事をも同時に意味します。
4. 適切な出費(samajīvittā):これは質素な生活によって出費を控えめにするという事です。とはいってもあまり極端に倹約し過ぎるものいけませんので、一生懸命に稼いだお金を使い、贅沢にはならない程度に物質的な快適さのある生活をしていくのが良いでしょう。
C-4.2. 精神的利益の定義4
賢者は「人はパンのみにて生きるにあらず」ということ、また万金を積んだとしても精神的充足感を得られるものではない事を知っているものです。こうした精神的充足感こそ人生における重要な利益、もっと言えば、彼岸に至る為の利益とされています。こちらの利益を得られるかどうかは、「来世以降の長期的な利益」(samparāyikattha)と呼ばれる以下の4 項目の美徳を在命中に持っていたか否かが分かれ目になります。
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4 AN.iv.281
1. 信心(saddhā):これは善行を行えば良い結果が、逆に悪行を行えば悪い結果が還ってくるという道理を信じる心を指し、これを持っている事で善行を最大限に積んでいこうという意志が持てるとされます。この信心を持つ事こそ、一生懸命に精進して善行を行っていける人物になる為の第一歩なのです。私たちの心は濁りやすく、この信心を失ってしまいがちです。朝目を覚ました時にはこの信心に溢れていても、布団から出て少し経つとスッと忘れてしまうのです。お釈迦様はこの様な信心を亀の頭に喩えました。信心を現す事も時折はありますが、ちょっとするとスッと甲羅の中に引っ込んでしまうという訳です。賢者と呼ばれるの人の信心は強固で安定している為、この様な事はありません。「亀の頭の信心」はしょっちゅう見られます。今日は不殺生の戒律を守ろうと朝に決心した人でも、蚊に食われたと気付くや否や、決心の事なんてすっかり忘れてピシャリとやるのです。その後で「しまった、今日は戒律を守るんだった。蚊の奴め、寄ってくるからいけないんだぞ」などと思うのです。賢者にはこうした事はありません。心の澄んだ人は、たとえ自分の心の中だけで立てた誓いであっても、絶対に守っていくものなのです。
2. 持戒(sīla):五戒をできる限り守るようにしましょう。というのは、五戒をどれだけ守れるかということはそのまま、自分がどれだけ「ケモノ」から離れて「人間らしく」あれるかという指標になるからです。自分がどれだけ「人間らしく」あるのかという事を確かめたければ、自分のあり方にこの五戒を照らし合わせてみれば良いのです。例えば、自分の今日一日と五戒とを照らし合わせてなんの問題も見あたらなかったなら、それは今日の自分が100%人間らしくあれたという事を指します。五戒の内の4 項目が守られていたなら80%が人間らしくあったという事です。3つなら60%で、ここまで来るとちょっと牙が見え隠れしてきます。これが更に40%まで落ちたなら牙はもっと顕著に、尻尾まで見えてきてしまうでしょう。20%なら残りの80%はケモノであるということです。五戒を一つも守れない場合、その人はもう完全に人間性を失っています。その様なケモノは番犬ほどの役にも立たないでしょうし、実際のところ、そんな人よりは野良犬の方が遙かにマシです。五戒を守るという事は、地獄に至る門から遠ざかるという事でもあります。五戒は私たちを「人間らしく」保ってくれるものなのです。賢者は間違いなくこの五戒を守っており、常に人間らしくあるものです。
3. 布施・喜捨の心(cāga):私たちは生まれたその瞬間から、人々の施しの心によって生かされています。もしも生まれたその日に母親が授乳を拒否したなら、その子はその日の内に死んでしまうでしょう。それに、もし幼少期に両親や親類が世話をせずにずっと放って置いたなら、その子は将来どんな人物になってしまうでしょうか。今日私たちが読み書きの能力に恵まれ、様々な知識を持つことができているのは、学齢期に学校の先生が時間と労力とを費やしてくれた恩のおかげです。子供の時に犯してしまった過ちに対し、罰せられる事はあっても最終的には許してもらえたでしょう。これは人々が広い心を持って接してくれていたおかげ(abhayadāna:無畏施)です。
大人になって結婚をすれば今度は配偶者による協力を受け、お互いに支え合っていくことになります。お互いの協力が無かったなら、結婚生活などあっという間に無に帰してしまうでしょう。ただ寺院に説法を聴きに行くという一つの事をとっても、そこにはその寺院を建立した人、イスを準備してくれた人、そして説法をする為に時間と労力を割いてくれている僧侶(dhammadāna:法施) など、さまざまな点での「施し」があって初めて成り立っているのです。賢者のようにあとうと思えば、信心を持つ事と持戒に加え、この「布施行」の実践が必要になります。
4. 智慧(paññā):お釈迦様の教えを一生懸命に実践しさえすれば、誰でも智慧を得て賢者となることができます。一日中ゴロゴロと寝っ転がっている人が智慧に至る事はあり得ませんし、「富豪の心臓4パーツ」を開発していくだけでも賢者となるには不十分です。休日だからといって家でただゴロゴロしたりテレビや映画ばかり観て過ごすのではなく、早朝にお寺にでも行ってお釈迦様の教えを学ぶなどすれば、少しずつ智慧が身に付いていくでしょう。
愚者の持つ「利益」に関する見識では、物質的にも精神的にも成功は得られません。賢者とは、現世的な利益と来世以降に関する利益、つまり物質的な利益と精神的な利益の両方を理解した上で、それらの獲得に向けて実践していく人のことを指すのです。
C-5. 賢者の心の性質とは
賢者は常に澄んだ心を持っているものです。どんなに社会的地位が低く、たとえ文字の読み書きもままならなかったとしても、いつも澄んだ心を保っていられるなら、その人は賢者であると言えます。これはなぜかというと、澄んだ心は他の要素にも影響していく性質を持っている為で、これによって判断力や見識も同時に高められ、その人のやること為す事、あらゆる思考・言動・行動に智恵が伴うようになってくるからです。
D. 賢者の見分け方
D-1. 賢者の外面的なあり方
これまでに述べてきた賢者の特徴は多く内面的なもので、外面的には判断しづらいものでした。ここでは賢者の優れた内面が外面に表れる例として、見分けやすいと思われるものを5つ挙げてみます:
1. 賢者は人々が正しい道を歩める様に導こうとする
試しに「休日はどう過ごすのが良いでしょうか」と尋ねてみて下さい。その人が賢者なら、「もちろん寺院に行くことですよ。映画なんぞ観て時間を無駄にしてはいけませんね」等と答えるでしょう。また、雨が降りそうな時にすれ違えば、「雨が降りそうですね。作物が駄目にならないように備えた方がいいですよ」等と言うでしょう。同じシチュエーションで、「雨が降りそうですね。かったるくてやる気が出ないし、ウイスキーの一杯でもひっかけません?」などと言ってくるのが愚者です。この様に、賢者も愚者も他者にアドバイスをするという点では一致していますが、両者のアドバイスがもたらす結果には大きな違いがあるのです。
2. 賢者は自分が関わった事に対して完全に責任を取る
賢者は自分自身が責任ある態度を取るのはもちろん、その態度によって周囲にも影響を及ぼしていきます。また、賢者は関わるべきでない事に関しては決して首を突っ込みませんし、その線引きに関して完全に心得ているものです。一方愚者はやたらと他人の領分に首を突っ込みたがり、しかもそうして自分がした事に対しての責任を一切取りません。
3. 賢者は正直で誠実な人を好む
賢者に不正をさせたり低俗な行為をさせようとしても無駄です。愚者はこの反対に、自分はどんな破廉恥な行為でもできるという事を誇りに思っていたりします。
4. 賢者は温和である
賢者は批判に対して寛容です。一方、愚者は相手の態度がどれだけ丁寧であっても、批判を受ければ直ちに怒りを燃やします。相手がどれだけ善意をもって諭してくれても顔をしかめ、「君は人の粗探しばかりする奴なんだな」などと言います。
相手が微笑んでいたらいたらで、馬鹿にされているのだと捉えて機嫌を損ねたりしますし、話しかけられたというそれだけの理由で腹を立てる愚者もいます。もっと酷いケースになると、ただ目が合っただけで「何見てんだよ?」となります。愚者は、常に争いの種を探しているのです。賢者はこれとは対極にあります。自分は怒りっぽいと思う人こそ、賢者とお近づきになる様にすれば、だんだんとその気質が改善されて冷静でいられる様になっていくでしょう。ただ、賢者の冷静さを独りよがりで他者に無関心な、いつもダラダラしているような人の性質と同様のものだと誤解しないようにして下さい。その様にダラダラしている人というのはただ単に万事に対して無責任なだけですし、しっかりと煩悩にまみれているものです。
5. 賢者は自戒と規律を好む
社会で集団生活を送る際には、法やその場での社会ルールに則っていかなくてはいけません。例えば寺院を訪れる場合、適切な時間に講堂に来て、隣の人と押し合ったりしなくても皆が座れる様に規則正しく並んで座っていなくてはなりません。愚者は規則に従う事を嫌いますので、わざと一人列を乱して座ったりして場を台無しにしてしまいます。通常、人々は功徳を積もうという善意をもって寺院を訪れるものですが、その寺院の中でもいざ食事の時間になると、ハゲタカの様に「我先に」と争いを始めてしまったりします。朝には天人の様に優雅に振る舞っていた人が、昼食の時間になると餓鬼の如くに一変してしまうのです。
賢者と親しむ事の利点をまとめると、彼らからの影響を受けて見識を向上させる事ができる事と、やがては彼らと同じく澄んで輝く心が得られるという事です。
D-2. 賢者の交わりとは
賢者は以下の様な「真の友人」としての素質を備えています:
・自分の尊厳についての責任感がある
・他者の尊前についての責任感がある
・公平な経済システムに対する責任感がある
賢者と親しんでいると、彼らが友人達に対して持っている責任感のレベルに気が付かされるでしょう。彼らとの交流を続けていれば、彼らが友人たちとどの様に接しているのかが理解できるでしょう。「真の友人」の資質を具えた人同士の付き合いでも、互いの責任感の持ち方はそれぞれ異なります。お釈迦様は「真の友人」を4つのグループに分類しました。またその4 グループにそれぞれ4項目ずつが割り当てられているので、計16 項目になります。
1. 保護してくれる友人
2. 不変の友情を持つ友人
3. アドバイスをくれる友人
4. 味方になってくれる友人
1. 保護してくれる友人のあり方
1. こちらが無防備な時に守ってくれる
2. 頼まなくても財産を守ってくれる
3. 危険に晒されている時に匿ってくれる
4. 頼んだ事の2 倍の結果を出してくれる
2. 不変の友情を持つ友人のあり方
1. 何でも相談できる
2. 秘密を守ってくれる
3. こちらが落ちぶれても見捨てないでいてくれる
4. 自分の為なら命をも投げ出す気持ちでいてくれる
3. アドバイスをくれる友人のあり方
1. 不健全な事柄から遠ざかるように警告してくれる
2. 善い事を進んでするように勧めてくれる
3. 新鮮な情報を提供してくれる
4. 天界に至る道を示してくれる
4. 味方になってくれる友人のあり方
1. こちらの不幸を喜ばない
2. こちらの幸運を喜んでくれる
3. 自分を中傷をする人を止めてくれる
4. 自分を讃える人と一緒になって讃えてくれる
これら16 項目を見れば、いずれもポジティブさを創り出してくれる要素のあるものだと気が付くでしょう。
E. 賢者との親睦
E-1. 賢者との親交を深める為の7 要素
お釈迦様は、賢者との親交を深める為に必要な7 つの要素を示しました。これら7 要素の内のいずれかを欠いていると、賢者との実りあるお付き合いは難しくなってしまいます。
以下がその7 要素です:
1. 賢者と頻繁に会うこと
賢者の性質を持った人と出会ったなら、その人に進んで会いに行くべきです。「あの寺院に賢者がいる」という噂を聞いたら、そのお寺に頻繁に通ってみましょう。これが賢者との親交を深める際の第一歩にあたり、これをしないことには何も始まりません。
2. 賢者に見知ってもらうこと
賢者を求めるのであれば、ただ彼らの視界の隅っこに居座っているというのではなく、こちらの事を知ってもらえるように積極的に動く事が大事です。ボクシング観戦やファッションショーとなると最前列に陣取ってかぶり付きで観るくせに、寺院に説法を聴きに行って僧侶が現れればすごすごと後列に紛れ込んでしまうというのでは、賢者とのお付き合いはできません。
3. 賢者に誠意をもって接すること
賢者に少しでも気に入ってもらえたなら、見返りを求めない精一杯の誠意をもってお付き合いすべきです。隠し事や、その他その人に対して秘密にしておかなくてはならないような事を持っていてはいけませんし、何か別の下心があって付き合うというのもいけません。これらの事が守れても、まだ十分とは言えません。
4. 賢者に忠実であること
前項で取りあげた「誠意を持つ」という事が相手への思いやりから発するものであるのに対し、本項の「忠実であること」は相手への敬意から発するものと言えるでしょう。相手との優れたお付き合いをしていくにあたり、思いやりと敬意のどちらが欠ける事もあってはいけません。また、学ばせてもらおうと決めた賢者の前では、思慮の浅いおしゃべりなどをしてその思考を邪魔するような事があってはいけません。敬意があればそうした事はしないはずです。
5. 賢者が困っていたら手を差し伸べること
賢者が私たちにも手伝えそうな問題に煩わされていたなら、積極的に手伝いを申し出ましょう。相手が困っているのに黙って放っておけるのだとしたら、そんなものは友情とは呼べません。一緒にワイワイと食事をとったりはできても、いざ真剣な問題となると全然協力し合わないような関係なら、友人とは言えないのです。
6. 賢者を談話会や食事に招くこと
賢者に時間がありそうなら招待し、下らないゴシップ等は慎んで、ダンマに関するお話を聞いたり疑問に思っている事を質問したりすると良いでしょう。
7. 仏法(dhamma)について熟考し、熱心に実践すること
これが一番大切な事です。これまでの6 項目を満たせていたとしても、この1 項目が実践できていなければ優れた交友はできません。逆に言えば、たとえ他の6 項目が満たせていなかったとしてもこの 1 項目が実践できていればそこそこ良いお付き合いができるということでもあります。仏法に間違いは無く、これを実践さえしていれば必ず「持戒」(sīla)と「禅定」(samādhi)、そして「智慧」(paññā)が向上していきます。これを実践していて賢者と出会えば、知り合ったばかりにも関わらず、遙か昔もしくは過去生よりの親友に出会ったかのように感じられるでしょう。仏法を胸に秘めた二人が出会うということ、仏法による絆が結ばれるというのはそういう事なのです。
ここでいう交友とは、たとえ何が起ころうとも共に協力していける関係を築いていくということを指します。一緒に仕事をする関係であれば、共に働き、相手からの援助を受け入れ、住居を共有し、同じ職場で働きます。何かを手に入れたら、惜しみなく彼らと分かち合います。賢者との親交を深めるに当たっての要点をまとめれば、分かち合うこと、受け入れること、そして与える事です。これら3 つを発展させていくと、これまで述べてきた 7 項目に繋がっていく事がお分かりになるでしょう。
E-2. 賢者との交友の原則
これは賢者たちとのお付き合いに限った事ではありませんが、相手の美徳からの刺激を受けて自分を磨いていこうと思えば、「善友」(kalyāṇamitta)として彼らに接していくのが一番です。実りの多い友好関係を築いていく事に関して仏典からの記述で一番参考になるのは、「シンガーローワーダ・スッタンタ」(Siṅgālovāda-suttanta:六方礼経)5 に説かれる「北の方角」の一節でしょう。そこには、「善友」たる為のあり方が以下の様に示されています:
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5 DN.iii.180-193
1. 寛大であること:
正見(sammādiṭṭhi)を持った人であれば必ず、苦難や苦しみに遭っている人を放ってはおけない慈悲の心に目覚めるものです。彼らはそうした苦難に遭っている人たちを寛大な心を持って助けようとするので、その過程から相手との友情が生まれます。
2. 愛語を語ること:
行いに関する4 つの煩悩を滅し、「善友」としての利他の心に目覚めている人は、礼儀正しく誠実な言葉のみを語るものです。
3. 友人の為を思って行動すること:
「真の友人」としての資質を持った人は利他の精神に目覚め、友人達の利益を考えて動きます。
4. 変わらぬ友情を持つこと:
これは状況がどう変わったとしても変わらぬ友情を持つという事で、例えば自分が昇進して相手よりも上の立場となったとしても、相手を見下したりはしないという事です。
5. 決して嘘をつかないこと:
「善友」である為には、真理を曲げるような発言を絶対にしてはいけません。
これら5 項目はそれまでに両親や教師、上司等から優れた教育を受けて「真の友人」たる資質を身に付けていて、初めて達成できるものです。
以上は私たちが賢者たる友人たちに接する際にあるべき姿ですが、一方で賢者たちにも、私たちに対して以下の様に接する責任があります。
1. 無防備な私たちを守ってくれる
努力はしているもののまだまだ至らない私たちが、ついうっかりして問題を起こしてしまったりした場合にも、真の友人たる人はそこに分け入って救いの手を差し伸べてくれるでしょう。そこで見捨てるようなら、その人はもともと友人では無かったという事です。
2. こちらが意識していなくても財産を守ってくれる
真の友人はこんな事もしてくれます。
3. 危険が迫っている時には匿ってくれる
そのように頼りになる人も真の友人です。
4. こちらが問題を抱えていても見捨てない
これも「善友」の証です。
5. こちらの家族にも敬意を払ってくれる
私たち自身への敬意に留まらず、私たちの恩人や家族にも、あたかも彼らが自分自身の家族であるかのように接してくれる人も真の友人です。
これら5 項目を具えた人物こそ、真の善友たる資質を持っている人です。このような人物と交友を持つ幸運に恵まれたなら、「母親が子供達に接する様に接すべし」というお釈迦様の言葉に従って彼らに大いに敬意を払い、親密なお付き合いをしていきたいものです。
そうした「真の友人」としての性質は、適切な環境下( 後述の吉祥経第4 項目参照) で育ったこと、中でも特に、素晴らしい性格を持った友人に恵まれ、彼らを見て自分を磨いた結果として得られるものです。
現在、社会や国家が求めてやまないのはこうした人間像でしょう。というのは、彼らの内部に燃える偉大な美徳の力こそ、社会や経済にも良い影響を及ぼして、道を切り拓いていく要因となるからです。
E-3. 賢者がいなかったらどうなるか
本当の賢者と呼べる人物が存在しなかったり、存在してもお釈迦様が説いた「賢者の責任」を果たしていなかったというような場合、個人、集団、そして社会レベルでの様々な問題が発生してきてしまうでしょう。政府と市民の間にも様々な軋轢が生じ、人々は亡命したがるようになります。このように、政府が市民にとっての「賢者的友人」では無くなる時、国家レベルでの問題が生じてくるのです。賢者との交友を欠く事によって発生し得る被害は、以下の3 つのレベルに分類されます。
1. 自身の人間性に関する責任感を失うレベル
人々が自律の精神を欠き、お釈迦様の提唱する他者に対する責任を果たさなくなった際にもたらされる最初の問題は、皆が自分の人間性に関する責任感が失われていく事です。その事によって、以下の3 つの問題が発生してきます。
1.1. 五戒を破るようになる
他者を信用できなくなり、かつての友人同士ですらお互いを欺くようになります。政治家なども、約束した事を簡単に反故にするようになります。
1.2. 邪見が育まれる
人々から物事の正誤、美徳と悪徳、理に適ったことと理不尽なこと、そしてカンマの法則に対する理解の道理が失われ、権力や財産、個人的な利益を得る為ならどんな事をしても良いと思うようになります。
1.3. 友人を裏切るようになる
自分の利得の為なら、友人を売るような真似までするようになります。
2. 他者の権利に対する責任感が失われるレベル
人々が自律の精神を欠き、お釈迦様の提唱する他者への責任を果たさなくなった場合、他者の権利に対する責任感が失われ、少なくとも以下の3 項目の問題が生じてくるようになります。
2.1. 差別が蔓延する
公平の精神が失われて仲間内だけをひいきするようになったり、利他の心が失われてひたすら自利に走ったりするようになります。
2.2. 故郷が尊重されなくなる
自己中心的な心と邪見を持つようになり、心が狭くなって思考が粗くなってきます。自分やその仲間の利益のみを考える様になり、自分の故郷や国、宗教を尊重する心を失い、自分の利益を出す為ならそれらを破壊しても構わないとすら思うようになります。
2.3. 権力や地位の濫用
公的正義感が失われるので、自分にとって都合の良いように隠蔽工作をしながら違法行為や反社会的行為を行うようになります。
3. 経済的倫理観が失われるレベル
人々から自律の精神が失われ、お釈迦様の提唱した「人々がお互いに対して持つ務め」を果たさなくなると、社会における経済的倫理観が失われてきます。これによって、少なくとも以下の3 項目の問題が生じてきます:
3.1. 腐敗
邪見と自己中心的な思考に染まった人々は、金銭とそれがもたらす権力のみを崇拝するようになります。金銭のみが、自分の身を保障しうる力であると思うようになるのです。
3.2.「破滅への道」6 項目に関係する商売をするようになる
金銭至上主義に染まると、手っ取り早く稼ぐ為ならどんな事をするのも厭わなくなります。ドラッグの取引から贋金造り、武器の密輸でも賭場経営でもなんでもやるようになるでしょう。経済倫理なんて気にもしなくなった人々にとっては、それが違法であろうが社会弱者を食い物にする方法であろうが、一向にお構い無しなのです。
3.3. 故郷や国を裏切る
そうした人が例えば政治関係のポジションに就くと、目先の利益の為に平気で国を売るような政治を行って国に破滅をもたらします。
賢者との付き合いを欠いた場合に生じる問題のまとめ:
1. 実質上の腐敗:汚職の蔓延、制度上の差別、道徳倫理・職業倫理観の消滅
2. 社会問題の蔓延:「偽りの友人」としての性質を持った人が政治家や役人、政府機関といった要所を占め、いい加減な仕事をするようになります。彼らは表向きこそ清廉潔白を装っていますが、裏では良からぬ取引を行っていたりします。成長過程において親や学校の教育が至らなかった為にそのような愚者に育ってしまった彼らは、友人としても自分と同じ愚者を求めていくので、結局賢者との交友を持てる機会を全く失ってしまうのです。
これらの問題に対しての解決策:
1. そうした「偽りの友人」の性質を持った人への投票を避け、要職に就かせないようにすること
2.「真の友人の持つ16 の特徴」と「偽りの友人の持つ16 の特徴」をチェックリストとしながら、まずは自分自身の欠点を克服して長所を伸ばすようにし、賢者との付き合いによって更に磨きをかけるようにすること
F. 賢者の種類
F-1. 内なる教師と外部の教師
賢者の種類を大きく二つに分けると、「外部の賢者」と「内なる賢者」になります。「外部の賢者」を更に2 種類に分けると、「真の賢者」と「普通の賢者」になります。「真の賢者」とはお釈迦様や阿羅漢といった、仏教の真理を究めたレベルの人たちの事を指し、「普通の賢者」とは阿羅漢レベルにまでは至らないものの、一生懸命に禅定修行をして、賢者と呼ばれるにふさわしい徳を身に付けた人たちの事です。これらの人々と出会えたなら、是非ともお近づきになってその徳から学び、自身のものとしていきたいものです。彼らと交友して損をするような事はまずあり得ません。両親と交友を持つ必要があるのは言うまでも無いでしょう。時に、両親が愚者の性質を持っており、それでも一緒に暮らさざるを得ないという大変なケースもありますが、せめてその悪しき性質を自分は持つ事の無いように努めて下さい。例えば親に飲酒癖があるような場合、飲酒を禁じるのは子の役割ではありませんが、自分も一緒になって飲みに行ったりだけはしないことです。親が賭けカードが好きだからといって、子である自分がそれを禁じなくてはいけないという事はありませんが、一緒になってゲームをしないようにして下さい。両親の行為が愚者のそれあると分かっても、両親に対しては控え目に接していくべきでしょう。
ただ、彼らとの共同生活において、彼らの愚者としての性質に自分までもが染まらないように気を付けていきましょう。
賢者の存在は、私たちの友人や親類にまで良い影響を及ぼしていきます。たとえそれが阿羅漢クラスの最高の賢者では無かったとしても、彼らとの付き合いは本当に素晴らしいものです。
「普通の賢者」との付き合い方について、お釈迦様は彼らの長所のみを見てこれを模倣していく事を勧めています。
彼らの内に欠点を見つけたからといって、これを取り上げて批判するのは有意義とは言えません。煩悩を完全に滅してでもいない限り、弱さや欠点を持っているのは当たり前だからです。相手の欠点探しをするよりも長所を見つけ、それを自分に取り入れられるように努力していくのが良いでしょう。これをずっと続けていけば、やがては大海の如くの偉大な徳を持った人物になれるでしょう。他者の欠点のみを見て、他の長所一切を見落としてしまうようではいけません。そのようにしているとやがて自分だけが正しいと思い込むようになって、ついには独りぼっちになってしまいます。
「外部の賢者」には2 種類のタイプがあります。煩悩を完全に滅した「常時賢者」のタイプと、煩悩をまだ持っている「散発的賢者」のタイプです。そのどちらとも積極的にお付き合いしていくべきです。
私たちが何か悪い事をしようとしたら、自分の内部から「それをしてはダメだ」という小さな声が聞こえた経験は無いでしょうか。その声がどこから聞こえてくるのか考えてみたことはあるでしょうか。その声の主が誰であるのかを突き止めるのは至難の業ですが、瞑想を続けて心が澄んでくれば、その声の主、つまり「内なる賢者」とでも呼ぶべき存在が見えてくるでしょう。私たちの内面からの情報は、内なる声から予知夢や第六感といった類いのものに至るまで、この内部の深層から、リレーのバトンが複数人のランナーによって運ばれるてくるようにして伝わってきたものなのです。
G. 賢者と交流する際の実践項目
私たちは以下の二つの事をしなくてはなりません。一つは、「外部の賢者」を探し、積極的にお付き合いしていく事です。自分にとって良い模範となり得そうな人を知ったなら、是が非でもその人とお近づきになる様にして下さい。そうしていく事で、その人を賢者たらしめている要素によってこちらも影響を受け、自己向上していく事ができるでしょう。もう一つは、良い模範となる人物の優れた在り方を見たなら、私たち自身も「内なる自己」を磨き、その賢者としての性質が自分にも現れてくる様に努めていくことです。「内なる賢者」を自分の中に見出す事ができたなら、以後「外部の賢者」に出会う機会に恵まれなかったとしても内なる賢者を教師として智恵を磨いていく事ができるでしょう。
H. 参考のお話
H-1.「魚を包む葉っぱ」
お釈迦様は、「臭いの強い魚を包んだ葉っぱには、同じ臭いが染み付く」という喩えをしました。
H-2. 賢者と親しんだ為に助かった赤髭処刑人のお話6
盗賊だったタンバダシカは足を洗った後、55 年もの間王国の公開処刑人として務めてから退職しました。ある日彼は河に沐浴に行き、その帰り道にちょっとしたごちそうを買って帰りました。そしていざそのごちそうを食べようとすると、今まさに深い禅定から覚めたばかりのサーリプッタ尊者が彼の家に托鉢に訪れました。尊者を見たタンバダシカは、「俺は長い間、多くの罪人たちを処刑してきた。このごちそうは、この坊さんにこそお布施すべきなのかもしれない」と思いました。彼は尊者を迎え入れ、ごちそうを施しました。
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6 「タンバダーティカチョーラガータカ・ワットゥ」
(Tambadāṭhikacoraghātaka-vatthu:DhpA.ii.203-208)
食事が終わるとサーリプッタ尊者は説法を始めましたが、処刑人としての過去に深く思い悩んでいたタンバダシカの耳には、尊者の言葉が届きませんでした。彼はいつもこの調子で深く思い悩んでいた為に、何事にも集中できなかったのです。これを見抜いた尊者は、彼を話に引き込む為に、法話を対話形式に変えました。「罪人を処刑したのは怒りや憎しみの為ですか、それとも命令されたからやったのですか」と訊きました。タンバダシカは「自分は王様に命令されて処刑をしていたのであって、罪人に対しての悪意は一切ありませんでした」と答えました。すると尊者は、「それなら、何の問題も無いのではないでしょうか」と言いました。これを聞いてすっかり安心したタンバダシカは、説法を続けて頂きたいと尊者にお願いしました。
熱心に説法に聴き入ると彼の心は穏やかになっていき、忍耐力と共感力が湧いてきました。説法が終わると、タンバダシカは尊者にしばらく付き添って見送り、それから帰途に着きました。しかし、なんと彼はその道中で事故に遭って命を落としてしまいました。
その晩の集会で、このタンバダシカ死去の報せがお釈迦様に伝えられました。タンバダシカがどこに行ったのかと尋ねられると、お釈迦様は彼は生涯を通して処刑という悪しき行為をしてきたにも関わらず、最後には仏法を理解した為に天界の兜率天(Tusita)という領域に、天人として生まれ変わったのだと言いました。そんなとんでもない悪業を積み重ねてきた人物が、ただ一度説法を聴いただけでそんな幸福な生まれ変わりができるものだろうかと訝る弟子達に対し、お釈迦様は「説法をどれだけ長時間聴いたかよりも、たったの一節でも正しく理解できたかどうかこそが重要なのですよ」と説明しました。
吉祥その3:敬うべき対象を敬う
A. イントロダクション
A-1. 見識によって相手を見分ける
これまでの2 項目に関する説明でお話してきたように、私たちの未来の明暗を分ける決定的な要素は、善悪を明確に見分ける能力を持っているかどうかです。この判断力を欠いていれば、人生がうまく行くはずも無いのです。人々は表面上は皆同じように見えたとしても、物事の判断基準にはそれぞれ大きな幅があります。この世に生を受ける段階では、私たちは皆平等です。しかし、同じ2本の腕と10 本の指を持っていても、それを器用に用いて社会貢献の為に使おうとする人がいる一方で、拳を握りしめて周囲の人を蹴散らしながらのし上がろうとする人もいます。この吉祥経の項目は、健全な見識を得るために必要な3要素の内、第3番目の要素に相当します。すなわち、心の中に優れた模範となる人物のイメージを持つという内容です。とは言っても、この項目が示しているのはとりあえず誰かの真似をすべきだというような内容ではなく、健全な見識を養う為に本当に敬うに値する人物のみを見極めて模範とし、敬意を払うようにしていくべきであるという事なのです。
A-2.「ヒーロー像」が見識に及ぼす影響
「敬意を払いなさい」とか「尊敬しなさい」とかいうと、そういう感覚に馴染んでいない現代人には反射的に「これは前時代的な教えだな」といった風に感じられてしまうかもしれません。ですから、これをちょっと現代風に「誰を自分の心のヒーローとするか、どの有名人をリスペクトし自分とシンクロさせようとするか」とでも言えばもっとしっくり来るでしょうか。幼年時代の私たちの視野は、家の内部で起こる事のみに留まります。ですから、大抵の場合は両親を最大の模範として育つ事になるでしょう。皆さんが子供時代に「ごっこ遊び」をしていた時も、「オトナ」の役を演じる際には両親の真似をしていた筈です。その両親が模範として理想的な姿を見せていてくれれば、その子供は幼年期から常識や倫理に関する素晴らしい薫陶を受けて育つ事になります。逆に、両親がしょっちゅう嘘をついたり激昂して子供を叩いたりしていた場合、子供はそうした態度を「正義」の在り方だと解釈しながら育つのです。
10 代になって視野が広がっていくに連れ、幼年期からの建設的もしくは破壊的な傾向にますます拍車がかかっていきます。それまでの「模範」の影響力に取って代わり、善い友人や悪い友人の影響力が強まってくる事は、先の2 項目でも説明しています。
ここでちょっと、現代の若者のアイドル候補と思われる有名人の名前を挙げてみましょう。
ヴァン・ゴッホ、カート・コバーン、マリリン・モンロー、ジャニス・ジョプリン、ディラン・トーマス、ジミ・ヘンドリクス、エルビス・プレスリー、ジム・モリソン、キース・ムーン、スコット・フィツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイ、ブライアン・ジョーンズ等々…
彼らは皆若くして自殺しているという点で共通しています。この事から、「創造的な天才は、その繊細さゆえに長く生きられない」といった結論を導き出す人がいる様です。
もしくは「創造的な作家は、名声へのプレッシャーから飲酒をせずにいられない」とか、「自殺をしたことで知名度や精神的影響力が得られた」などという結論が出るようです。しかし、有名人の生涯に関するこうした視点は、彼らの不安定かつグロテスクなまでに「ありきたり」な現実を見落としていると言わざるを得ません。彼らの持っていたごくごくありふれた中毒症状が、合理化されてしまっているのです。そうして自分のヒーローの欠点を容認すると共に、自分が彼らと同じ欠点を持っていたとしてもこれを容認してしまうのです。自分が無責任であること、不真面目であることを、「憧れのあの人も同様であったから問題無い」としてしまうのです。「自分も、この世に生きるには繊細過ぎる」とか言いたがる人もいるでしょうし、薬物中毒の少年のように振る舞って人生を棒に振ったりドロップアウトしてしまう人もいるでしょう。
ヴァン・ゴッホのような人をもっと現実的に眺めてみれば、創作活動に勤しんでいた時には文句無しに美しかったですが、それ以外の時にはそうでもなかったのだと言えます。彼は感情の持つ悪しき面に無頓着でした。絵筆を持っている時の彼は実に素晴らしかったのでしょうが、それ以外の惨めな生き様までをも伝説化し、憧れを抱くのは何か間違ってはいないでしょうか。吉祥経について学び始めたばかりで、どんな事が精神の成長に繋がり、またどんな事がそうではないのかという事についてまだよく弁えていない私たちには、実際の所どんなあり方が創造的で、どんなあり方が破壊的なのかという事を明確に判断する能力が具わっていないものです。そのようにまだ未熟な段階にある私たちには、あらゆる人生の局面において参考にできる模範が必要なのです。
模範として適した人物を選択したなら、以下のような恩恵が得られます:
・正見と智恵が得られる
・愚者からの影響を受けづらくなる
・愚者との付き合いを避けやすくなる
・社会や世界に貢献しやすくなる
・自己中心的になったり、自分の長所について傲慢になったりしづらくなる
・智恵の基盤となる「気づき」が育まれやすくなる
・自己向上に対する熱意が湧きやすくなる
B. 敬意を表す事とその目的
心の中に「ヒーロー像」を持っている時の自分のあり方を分析してみると、全意識を自然にその対象に向けるようにしている事に気が付くでしょう。壁にはその人のポスターを貼りますし、その人について話す時にはその人を讃える事しか言いませんし、ことある事にその人がどんな思想を持っているのかを知ろうとし、またその思想に共感しようとするでしょう。可能であればその人に直接会いたいと思うでしょうし、その生き方を真似たいとも思うでしょう。服装を真似る事から入る人もいます。これらの行為は全て「敬意」が様々な形を取って現れたものです。「敬意を表す」「リスペクトを表現する」方法は多種多様です。
B-1.「敬意を表する」とは?
ある人物に敬意を表する、リスペクトするということは、その対象の長所を見出し、それを自分自身の内に取り込もうとしていくことであると言えます。吉祥経では、純一に精神的成長のみに焦点を当てた上での「敬意を表すること」が語られています。相手にへつらう事ばかりを考えて、格下にも簡単に投げられてあげるばかりの柔道家の弟子になっても意味がありませんし、部下からのお世辞を自分への本当の敬意であると勘違いする上司は、実際に水面下で何が行われているのかを把握できずに、最終的には職を失うような事になってしまったりします。
後者のケースに見られる「敬意」は物質的な見返りを求めているものですので、純粋なものとは言えません。
真の敬意とは、相手の美徳に対する反応として現れるものです。それ以外から発している、一見敬意の様に見えなくもないものはその実、見返りを期待した偽りの敬意でしかありません。まずは相手をおだてる事から始まり、徐々にあれこれと頼みを断る事のできない状況に相手を追い込んでいくのです。男の子が女の子に「君はなんて可愛いんだろう!」と言う時には、彼は相手に自分を好きになって欲しいと思っているのです。つまり彼は見返りを期待してそう言っているのであって、彼女の善良さや可愛さそれ自体にはさほど関心が無いのです。
B-2.「敬意を表する」に当たっての作法
敬意を表するという事は、その対象が目の前にいる時とそうでない時の区別無く、礼儀正しく、気遣いを持って接するということで、そのようにして初めてその対象の美徳を自分のものにしていく事ができます。
B-3. 敬意を持つ目的
敬意を表すにふさわしい相手を讃えていくべき理由は、賢者と付き合うべき理由と共通しています。賢者と交友を持つ事で、道徳的な善し悪しに関する見識を養いやすくなるということは既に説明しました。そうすることで、私たちが生来持っている欠点、つまり先生や師匠、両親や宗教コミュニティ、お釈迦様や本から学んだ善い事をすぐに忘れてしまうという欠点を克服していく事ができるのです。瞑想法やその他の善い行いをする方法を30 分間だけ学んでも、残る記憶は実に曖昧なものです。初日は30 分間きっちり瞑想をするかもしれません。翌日になるとこれが15 分になります。まあ、全くしないよりはマシですね。3 日目になると、「読経は瞑想みたいなものだろう」とか判断して、実際にじっくり瞑想するのは5 分間だけになります。4 日目には「今日はひどく蒸し暑い。読経のみで、瞑想まですることは無かろう。それに、瞑想なんてしていない人の方が多いだろうに、彼らも何の問題も無くやっていけてるじゃないか」なんて考え出します。そして5 日目にはとうとう、30 分間学んだ瞑想の方法など綺麗サッパリ忘れてしまうのです。
この様に、私たちは善い行いに関する事は実にあっさりと忘れてしまうものなのです。この為に、善いものには意識的に敬意を表していく事が必要となるのです。善い事の記憶とは反対に良からぬ事、曲がった事に関しては、一度学びさえすれば、もう一生忘れる事が無い位にしっかりと覚えてしまうものです。例えば、賭けポーカーのやり方、カードの切り方などは一度覚えたら絶対に忘れないでしょう。
敬意を払う事の根底にある真の目的を挙げてみましょう:
1. その対象となる人物の美徳をしっかりと身に付ける事です。有徳の人物と自分の思考とを重ねる事で、自分の精神状態をその人と同じように高く保つ事ができるようになります。
2. その人の前で善良であろうとすることで、その人の様に本当に善良な人物に近づいていける事です。お互いの年齢に関係なく、たとえ対象の尊さが本当の意味では理解できていなかったとしても、対象に敬意を表す事で彼らに近づいていくことができます。仏教文化圏では、子供達が5 ~ 6 歳になると保護者が彼らを寺院に連れて行き、仏像に敬意を表する事を教えます。子供にしてみれば、「ただの焼き物」とか「ただの金属の固まり」の像に対して、大人達が何をそんな大騒ぎするのかがさっぱり分かりません。幼い子供には、お釈迦様の尊さを本当の意味で深く理解することはできないでしょう。叔父さんの家に連れて行かれれば、今度は「叔父さんの前ではお行儀良くしなさい」と言われ、その叔父さんの何が偉いのかなどはサッパリ理解できなくても、親に言いつけられた事ですので、とりあえずは叔父さんに敬意を表します。また、学校に行くようになれば今度は教師に敬意を払うようにと言われます。子供の判断力では先生の何が偉いのかなんてよく分からないでしょう。しかし、こうして敬意を表しながら生きていくうちに、私たちはそうして敬意を表すべき理由についてだんだんと自分で考え始めます。
B-4. 3種のお辞儀
本当の敬意とただの慇懃な態度とを取り違えている人が結構います。同じ敬意を表すといっても、ただ慇懃な態度を取るだけでは、精神的な成長は見込めないのです。
お辞儀をする際の態度を例に挙げてみましょう:
1. 周りに合わせてするお辞儀:
これは「みんながしているからする」お辞儀で、大抵はイヤイヤやっており、尊敬の心からではありません。このようなお辞儀をしても、緊張による肩コリくらいしか得られません。
2. 媚を売る目的のお辞儀:
相手のご機嫌を取り、望みを叶えてもらいたいが為だけにお辞儀をする人がいます。しかもそういった望みは、大抵何か良からぬものなのです。
3. 智恵を求めてするお辞儀:
これを相手を心から敬い、その相手の持つ美徳を自分もいつか身に付けるのだという決意から、向上心と共に敬意を表すお辞儀です。こうした心持ちでするお辞儀の例を挙げるなら、仏教徒がお釈迦様にする三拝がこれに当たります。
三拝の内容:
1. 一回目の礼拝:苦しみの存在、起源、消滅、そして消滅に至る為の道を明らかにし、瞑想によって心を明るく清らかにし、煩悩を完全に断ち切ることによって智慧を得たお釈迦様の大徳に対して敬意を表します。お釈迦様の教えに従い、一生懸命に瞑想をすれば、いつかお釈迦様と並ぶ智慧に至る事もできるでしょう。
2. 二回目の礼拝:お釈迦様がそうして得た智慧を自分の中でのみ保つのではなく、その教えを「ダンマ(法)」として、人々を覚りに導く為に一生をかけて説いてくれたその偉大なる慈悲の心に対して敬意を表します。
3. 三回目の礼拝:お釈迦様が自己を完全に律する事によって身に付けた身体と言葉、心の究極的な清らかさに対して礼拝します。私たちもお釈迦様のように自分を完全に律していくことで、心の完全な清らかさが得られるでしょう。
B-5. 2種類の敬意
これまでに述べた4 種類の敬意は、以下の2 種類に大別することができます:
1. 物質(形)によって表す敬意(āmisa-pūja):
これは目に見える実際的な形で敬意を表すことを指します。つまり、合掌をする事もこれに含まれますし、相手を讃える言葉を発する事もこれに相当します。
2. 実践によって表す敬意(paṭipatti-pūja):
これは、教えられた事を実践する事によって敬意を表す方法です。つまり、お釈迦様の説いた法を実践することは、そのままお釈迦様に敬意を払う事にもなるということです。
このように、実際に敬意を表す方法には2 種類があるのです。
B-5.1. その他の注意点
お釈迦様に敬意を表す際には実践をメインとし、形による敬意はあくまでそれを補うものとすべきです。一方、世俗の事に関わる目上の人たち(国王、両親、教師、先輩、上司等)に対しては物質(形)による敬意をメインとし、実践による敬意がそれを補う形にすべきでしょう。
例えば教師に会って「先生に教わった事を全て実践していますよ」と言っても、大して感心されることもないでしょう。こういう場合は、贈り物などの形で示した方がより適切なのです。
ある生徒が海外に行き、先生へのお土産どうしようかと思案した挙げ句にお酒を購入したとします。それを持っていけば当然「とりあえず一杯」という事になって、師弟で酒を酌み交わす事になります。飲めば飲むほどにお互いの神経が昂ぶり、結局は大ゲンカになったりします。こうなると、本来なら敬意を示すはずであった贈り物が、その正反対の効果を発揮してしまった事になります。この様に、邪見に基づく贈り物は招かれざる結果をもたらします。
C. 尊敬すべき人物とは
尊敬すべき人物とはどんな人かということを最も単純な言葉で言うなら、つまりは「賢者」(吉祥経前項目の説明参照)の事です。ここで言う賢者とは、私たち俗人が決して自分たちと同列に語る事の出来ないような、高徳の人々の事です。以下にその例を示します:
C-1. ブッダ(Buddha:仏陀・正覚者)
お釈迦様の事です。
C-1.1. ブッダの3 つの徳
お釈迦様を尊敬すべき理由を3つ挙げてみます:
1. 独力で覚りに至るほどの智恵を持っていた
2. 自分の至った覚りに人々を導く為に一生を費やす程の深い慈悲を持っていた
3. 戒律を他に並ぶ者の無いほどに完璧に守っていたため、身体、言葉、意識が澄み切っていた
以上がお釈迦様に最高の敬意を払うべき理由です。
始めはその徳の大きさについて理解しきれないかとは思いますが、敬意を表していく程にこちらの心も洗練されて物事を建設的に考えられる様になっていき、やがては内なる智恵が開花してお釈迦様の徳が理解できるようになるでしょう。どんな所にも必ず、尊敬すべき対象と尊敬すべきではない対象がいるものですが、それをきちんと見分けられるようになる事がこの吉祥項目の要点になります。
C-2. 僧団と僧侶
サンガ(saṅgha:僧伽・僧団)の構成員は、煩悩を完全に滅した者(ariya-saṅgha)(例:阿羅漢)、不還果(anāgāmin)、一来果(sakadāgāmin)、預流果(sotāpanna)、そしてそれら以外の、煩悩を滅する事を目指して修行している人々(sammuti-saṅgha)に分類されます。下の位の修行者達はまだ完全には煩悩から完全に解放されてこそいませんが、それでも私たち俗人と同列に語ってはならない大きな徳を持っているものです。彼らと交流する際には必ず、目上の人物として敬意をもって接していかなくてはいけません。敬意を払うべき僧侶とは、道徳の模範となり、道徳についてとその見分け方を教えてくれる僧侶のうち、以下の6 項目を満たしている人物です:
1. 信徒達を悪行から遠ざけようとする
2. 信徒達を道徳的であるように導く:これは両親や教師の役割でもあります。
3. 人々の面倒を親切に見てくれる:信徒達に対し、見返りを期待せずに慈しみの心を持って接します。また、他の僧侶を引き連れて衆生に説法をし、また彼らに布施行を実践する機会を与えます。
4. 新しい事、役に立つ事を教えてくれる:修行者の最も重要な役割の一つは、信徒達の精神的成長に繋がる学習を促す事です。僧侶達は幅広い信徒達に教えを施す為にお話の膨大なレパートリーを持っているべきですし、その為には毎回同じお話をしているようではいけません。そうして人々の正見と、自分自身の教師たるべき能力(yonisomanasikāra)とを育み、最高の幸福に導いていかなくてはなりません。
5. 人々の既に知っている事をより確固たるものにしてくれる:
僧侶が既に一度した説法をもう一度する場合には、前回よりも詳細に語ったり、別の解釈を付与したり、日常生活に取り込む為の応用法を説いたりと、展開していくべきです。
6. 天上界に至れるように導いてくれる:
人間関係の在り方を示す「六方」の中でも、僧侶の持つ役割は特にユニークなもので、彼らの役割を他の立場の人々が代わりに果たせるという事はあり得ません。天上界に至る為には、自己をしっかりと律していかなくてはならないのです。
このグループを構成するのは、物質的な事よりも精神的な事に主眼を据えている修行者たち、つまり僧侶や神父、牧師等です。彼らが高い徳を持って生きているが故に、私たちは彼らに敬意を払うのです。
つまり、修行者たちには在俗者たちをして「賢者」もしくは善人に至らしめる責任があるのです。なんとも高貴な務めですね。上記6 点の務め全てを果たしている僧侶がいたなら、その人は社会にとって、そして世界全体にとって計り知れない価値を持っていますので、人々からはもちろん天人たちからすら敬われるでしょう。
C-3. 有徳の統治者
統治者で尊敬に値するのは、優れた統治者としての10の徳を身に付けている人々です。
C-4. 両親
両親と、世間の真っ直ぐな人々です。両親は賢者であるとして敬意を持って接するべきで、それ以下の接し方をしてはいけません。
C-5. 教師
正見を持った教師たちの事です。生徒たちの尊敬を受けるに相応しい教師たる為の条件として、以下の2 つの義務があります。
1. 説明する義務( 例:物事を論理的に説明する)
2. 模範となる義務( 特に道徳的な面で)
これらの内いずれか一つでも欠いていれば、その教師は白昼堂々と給料泥棒をしているも同然です。物事の説明が巧かったとしても、その態度が生徒達の模範として相応しいものではなく、「私を模範とはせずに、ただ私の言う通りにしなさい」などと指導したり、「お酒はいけません」と指導しながら、暇さえあればバーに入り浸ってべろんべろんに酔っぱらっているような先生は、ただお給料目当てのアルバイトみたいなものです。
論理的な説明に優れ、自身の在り方も模範的な先生にこそ敬意を払うべきでしょう。
C-6. 徳のある上司
徳に優れる上司にも敬意を払いましょう。そのような上司に巡り会える可能性は低いかもしれませんが、もし出会えたなら惜しみの無い敬意を表しましょう。自分自身の徳が彼らの徳に遠く及ばなかったとしても、彼らを敬っていくことでその善良さについていつも意識していく事ができるので、万が一自分が何か良からぬ事をしてしまいそうになっても、その上司の素晴らしさを想う事でそんな自分を恥じ、思い留まれる可能性が高くなります。また、自分の失態がその上司の評判を落としてしまう事だけはどうしても避けたいと思うことから、一生懸命働けるようにもなれるでしょう。これが徳に優れた上司を持つ事のメリットです。そうしている内に、間もなく自分自身もしっかりとした見識を持てるようになっていきます。
D. 敬意を払うべき物体
お釈迦様が敬意を払うべき対象として指摘したものには、お釈迦様、サンガ、統治者、両親、教師や上司があるわけですが、その他敬意の対象とすべき「物体」としてチェーティヤ(cetiya、仏塔)が挙げられています。
D-1. チェーティヤ
D-1.1. 四種の仏塔
お釈迦様は敬意を払うべき対象として四種のチェーティヤ(仏塔)を挙げました:
1. ダートゥ・チェーティヤ(dhātu-cetiya)
これはブッダ(buddha)、独覚(paccekabuddha)や阿羅漢(arahant)、転輪王(cakkavattin)と呼ばれる人たちの遺物の仏塔を指します。本当に徳に優れた人物が亡くなると、灰の中に真珠のような遺物が発見されます。仏教の伝統ではこうした遺物は信心深い者の手によって集められ、単にロウソクやお香を焚いて祀るだけでは無く、礼拝の対象として小さな仏塔の中に封じて祀ってきました。
2. パリボーガ・チェーティヤ(paribhoga-cetiya)
これはお釈迦様の一生に於ける特に重大な出来事が発生した4 つの仏跡である「四大聖地」のことを指し、お釈迦様の生誕の場、成道の場、最初の説法の場、逝去して般涅槃(parinibbāna)に至った場がこれに相当します。お釈迦様はこれら4 つの場所を「パリボーガ・チェーティヤ」と呼び、後世の仏教徒がこれらの場所を訪れる事で修行の必要性に目覚めやすい為、できるだけ訪れるようにと言っていました。これらの仏跡を訪れた人の多くがお釈迦様存命の時代に触れたような感覚を味わい、修行への熱意が高まったと言っています。こうした事からも、これら4 つの仏跡には敬意を払うべきでしょう。
3. ダンマ・チェーティヤ(dhamma-cetiya)
三蔵[Tipitaka] のやその他の経典が収められた仏塔です。
4. ウッデーシカ・チェーティヤ(uddesika-cetiya)
お釈迦様やその他の高弟たちの仏像、袈裟や鉢、その他の僧侶たちの生活必需品などが収められた仏塔を指します。これらも敬意を払うべき対象となります。
D-2. ブッダの教え( 仏法)
敬意を払うべき5 つ目の対象物は、精神に関する教えとその源となるものです。これはつまり、お釈迦様とその僧団、国王や両親、先輩や先生、その他私たちと交友のある賢者たちからの指導のことを指します。前に説明した6 種の賢者の教えは彼らの美徳の結晶であり、これを軽く聞き流すような事はしてはいけません。そうしたアドバイスをいい加減に聞いていては、実践に移せることは決して無いでしょう。実践ができないという事は同時に、その教えを本当の意味で理解することができないという事にもなります。理解が無ければ、後に残るのは愚かさと邪見のみです。
この項目に相当するものは決して軽んじてはいけません。これらに対して敬意を欠いた態度で接する事でそれらを尊ぶ心が更に失われる為、後でそれらについて学ぶ機会に恵まれたとしても、その深みや微妙なニュアンスを理解できなくなってしまいます。例えばある人が寺院で僧侶から五戒を授かり、しばらくはそれを真面目に守っていたとします。そこにある友人が現れて「五戒? あんなの一日に一つでも守ればいいんじゃないの?」と言ったとします。彼はそれでも五戒をちゃんと守り続けるかもしれませんが、そこで聞いた言葉は、彼の心の底に影を落とし続けるでしょう。
仏像や国王、両親や教師の画像等に関しても同じ事が言えます。それらの像や画像は野ざらしにされたり、敬意を欠いた形で扱われてはならないのです。経本もその辺に放っておいたり、折り曲げてお尻のポケットに入れたりしてはいけませんし、汚れたところに置いたり、他の物をの下に敷いてもいけません。
まとめると、敬意を払うべき対象は、高徳を有する賢者たちと、社会的に見て自分よりも遙かに高い地位にある人たちを含んだ6 種類の人々、そして彼らの徳について思い起こさせる物品だという事になります。その人物が既に亡くなっていたとしても、敬意を持って彼らの遺品に接することで、彼らの持っていた高潔な心と正見とをいつも意識していけるようになるでしょう。
D-3. 仏法の学習に関する物
また、ダンマに関する内容を含んだあらゆる書籍にも敬意を払わなくてはいけません。昔の人たちは、法話の際にメモを取ったメモ帳一つにしても、非常に大切に扱ったものです。そうしたメモ帳を投げたり踏んだり、地べたに置いたりページを破ったりしてはいけないと教えられたものです。そうしたメモ帳に対して乱暴な扱いをする事で、仏法そのものに対する不敬になると考えられていたのです。仏法に対する敬意を欠いていると、仏法について深く考えようとしてもその微妙な部分が推し量れなくなって理解には至らず、結局愚かなままの状態になってしまいます。
D-4. 尊敬すべきではない対象
同時に、敬うべきでは無い対象も存在します。それらを以下の4 つのカテゴリーに分類することができます。
1. 尊敬すべきではない人物:
愚かな人を崇めたり、サポートしたり賞賛すべきではありません。これは彼らの社会的地位がどれほど高くてもです。
2. 敬意を払うべきではない対象物:
愚かな人物に関する画像、像、作品、所有物や道具がこれに相当します。
3. 愚かさに繋がるアイコン:
道徳性を欠いていたり、「破滅の道」( 飲酒等) に関する宣伝をしているようなモデルや歌手、スポーツ選手等のポスター等を指します。こうしたもので部屋を飾らない様にしてください。
4. 迷信的なこと:
「パワースポット」や「精霊の家」を崇める事がこれに相当します。
E. 実際に敬意を表す方法
E-1. 身体、言葉、意識による表敬
敬意を表す方法には、身体による方法と言葉による方法、そして意識によるも方法があります。
1. 身体による表敬:
身体によって敬意を表す作法には様々なものがあり、それらは主に対象の人物の居る前で行われます。例えば、その人が部屋に入ってきたら起立をすることや、その人の前で行儀良く座っているようにすることなどがこれに当たります。また、彼らがその場にいなくても、彼らの画像や彫像に対してこの身体動作による敬意を払っていくべきでしょう。例えば仏像や、皆さんそれぞれが師と仰ぐ人物の画像に対してもそのように敬意を払うべきです。それらの対象に向けて足を放り出したりしないよう気を付ける事、また就寝時などにもそれらに足を向けず
に頭を向けて眠るようにすべきです。
2. 言葉による表敬:
敬うべき人物と関連のある話をしたり、お経を唱えたり賛美歌を歌ったりする事がこれに当たります。彼らに関する低俗な噂話などをしてはいけません。
3. 意識による表敬:
意識によって敬意を表すには、その尊敬すべき人物の教えをよく噛みしめて自分の血肉としていくことです。その人物が説いた善良な教えを噛みしめ、またその人物が直接説くことは無くても、具えていると思われる善良さや美徳について想いましょう。そのどちらもが、意識によって敬意を表す為の方法となります。
E-2. 表敬の形
表敬のあり方の一つとして礼拝をすると言えば、蓮の花とロウソクとお香を礼拝の対象の前に備えて3度お辞儀しさえすれば良いと思っている人もいるでしょう。それは間違いでこそありませんが、それで全てかと言えばそれも違います。以下に示す4 要素を達成して、初めて完全な表敬と言えるのです:
1. 物的な形での表敬(sakkāra):
尊敬の証としての贈り物の事を指します。これは前もって準備しておき、相手に敬意を示しながら渡すようにしましょう。こうした形での尊敬の証は、シチュエーションやその対象人物のカテゴリーの違いによって形が変わっていきます。例えば、お釈迦様や僧侶、その他の指導者に対しての敬意を示す際には花やお香、ロウソクが適切な贈り物となりますが、両親に敬意を表すためのプレゼントとしては、衣服や寝具等の方が適切でしょう。
相手の社会的地位によっては、そのどちらのタイプの贈り物もふわさしくない場合もあるでしょう。観光地に売っているような、くだけたお土産を贈ってはいけない相手というのもいます。また、お金そのものも敬意を表す証となりえます。例えば、先生が皆さんの為を思って居残って補習をしてくれたなら、そのお礼に受講費を余計に差し上げてもおかしくはないでしょう。そうした場合は「支払い」というより、あくまで敬意を込めた「お礼」として差し上げるのが適切でしょう。また、これら敬意の証としての物品を贈る際には、前もって綿密に計画を立てておく必要があります。お寺に巨大な花束を贈ったとして、その花束に付いてきた巨大なバケツごと講堂の真ん中にどんと置いてきたのでは、あまり敬意のこもった贈り物という感じでは無くなってしまいます。敬意の証としての贈り物は前もって適切かつ綿密に準備をし、すっきりと整った形で贈るべきです。
2. 表敬のジェスチャー[vandana]:
これは仕草によって敬意を表す方法で、お辞儀や膝立ちでの礼拝、対象への賛美や読経などがこれに当たります。朝晩のお勤めの読経もこの Vandana に相当します。賢者や指導者に教わった事について思い起こす事もまた、この Vandana に相当します。
3. 敬意のある姿勢(mānasa):
これは相手に敬意を持った態度を取ることです。英語の Respect(尊敬)という言葉は、「再度」を表す ”Re” と、(長所を)「見る」ことを表す ”Spect” から成っています。お釈迦様を除いたあらゆる人は皆、長所と短所の両方を持っているものですが、相手の長所のみを見ていく事が大事なのです。それらの長所を見つけたら、ただ見つけたままにしておくのではなく、それを讃えて敬意を表し、同時にその長所を模範として自分も身に付けられるように努めましょう。
4. 敬意の対象を気遣う(garukāra):
これは敬意の対象となる相手の健康や幸福を祈り、その人の善行や美徳について思いを馳せていく事を指します。
これら4 項目は全て、敬意の在り方に関するものです。
E-3. 敬意を示すべき対象に敬意を示さなかった場合
高い尊敬を受ける立場にある人が、受けている敬意に相応しからぬ行いをした場合、本人や個人間はもちろん、社会全体レベルで害をもたらしてしまいます。僧侶を例に挙げるなら、もし彼らの規律が滅茶苦茶で、信徒たちに対してお釈迦様の指示した通りの正しい方法で接していなかったなら、信徒たちに以下の3つのレベルでの害をもたらしてしまうでしょう。
1. 自分自身の人間としての品位に関する責任感が失われる:
僧侶が自律の姿勢を欠き、お釈迦様の指示した信徒たちとの関わり方を果たしていなかった場合、信徒たちはまず自分自身の人間としての品位に関する責任感を失ってしまいます。その事によって、少なくとも以下の問題が発生してくるでしょう:
1.1. 自分を律する事ができなくなる:
社会全体が堕落して、ほとんどの人が五戒を守らなくなるどころか、戒律を守る事の意義すら分からなくなってしまいます。こうなると、人々がお互いを食い物にし合う社会ができあがります。世間で、特に権力を持った人々の間でそういう風潮が蔓延してくれば、国家レベルでの悪影響が懸念されるようになってきます。ですから、私たちは五戒も守らないような人たちを権力者の立場に立たせないようにしていかなくてはなりません。
1.2. 出家者の質が低下する:
質の低い出家者は僧戒師(出家式を執り行う僧)の手を患わせるだけです。そのような出家者を育成していくのは大変な骨折りなのです。僧侶たちが身体、言葉、意識の清浄さを達成していくことができなくなれば、それは信徒たちの信心にも影響し、やがては宗教そのものが崩壊してしまうでしょう。
1.3. 覚りの高みに至るのが大変に困難になる:
出家者の究極目標は涅槃(nibbāna)に至る事の筈ですが、出家者の質が低下して僧侶の育成が困難になってくると、サンガの質は低下の一途を辿り、誰も覚りの高みに至る事ができなくなってしまいます。そうして宗教的な模範となる人物が皆無になれば、信徒たちは邪見ばかりをどんどん強めてしまいます。人々から仏法の教えが失われ、皆が自分を律する事ができなくなっていくに連れ、社会は重度の混乱状態に陥っていくでしょう。
2. 他者の人間としての品位に関する責任感が失われる:
僧侶が自分を律することをせず、お釈迦様の説いていた信徒たちに対する務めを果たさなかった場合に起こる次の問題は、信徒達が他者の人としての品位に関する責任感を欠く様になることです。そうなれば、少なくとも以下の問題が発生してくるでしょう:
2.1. 僧侶たちに対する誹謗:
人々が僧侶たちの存在意義を認めなくなり、その生活様式などに誤解を抱き始め、公然と彼らの誹謗中傷をするようになるでしょう。(これは現代のタイ国でも既に散見されます)
2.2. 僧侶たちへの施しが無くなる:
メディアによる僧侶たちに対するしばしば不当な批判報道によって、民衆の僧侶に対する信頼が失われると同時に、彼らへのお布施も減少します。仏教のように信徒達の積極的な支持があって初めて成り立つ宗教では、その支持が失われれば僧侶たちが生活していけなくなりますし、宗教それ自体の存続が困難になってしまいます。
2.3. 民衆の心の拠り所が失われる:
そうして民衆に無視される事によって宗教が解体されてしまえば、その後は人々がどんな苦境に立たされたとしても心の拠り所とすべき対象が無くなってしまいますし、「自分自身の教師たる能力」も失われ、迷信やアニミズム等を頼みにする状態に退行してしまいます。
3. 社会全体の経済倫理が失われる:
僧侶が自分を律せず、お釈迦様の説いた信徒たちへの務めを果たさなかった場合に起こる3つ目の問題は、人々が経済的な公正さを尊重しなくなることです。こうなれば、少なくとも以下の問題が発生してくるでしょう:
3.1. 人々が「破滅に至る6つの道」に耽るようになる:
社会モラルが低下すれば、人々はドラッグ、ギャンブル、売買春、その他良からぬ享楽や闇クジなどに耽ったりそれらを商いにしたりするようになり、結果としてもたらされる借金や病気等に苦しむ事になります。
3.2. 寺院の備品や制度への冒涜:
「破滅に至る道」は人々を貧困に陥れずにはおかない、非常にたちの悪いものです。そうして貧困に陥った人の中には泥棒になる人もおり、その最も安易なターゲットとなりがちなのが、寺院の財産です。食い扶持を得る為だけに寺院に入り込む人もいます。タイでは偏った見識を持つ法律家の為にこうした事が大目に見られる傾向がある事もあって、こうした問題が増加してきています。
3.3. お布施の着服:
寺院の維持の為に集められたお布施から「手数料」を頂くのが好きな人たちがいるようです。「半分は寺院の為に、半分は支持者である私の為に!」という訳です。もっとも、最近では政府が寺院の資金を自由にできるようにしようと動いている法律家がいますので、それよりも更に悪質なのですが。
敬意を払うべき相手に敬意を払わなかった場合に発生する問題を大きく二つに分けると以下のようになります:
1. 目に見える社会問題:
人々が道徳に無頓着になり、社会全体の倫理が低下します。そうした世の中では、人々は「偽善にウンザリして道徳に興味を失った」などと言います。同様の根拠から宗教団体へのお布施をしなくなったり、もっと酷いケースになると、法律そのものを動かして宗教団体を潰してしまおうとする場合もあります。
2. 水面下での社会問題:
目に見えない部分の社会問題の多くは、道徳の体現者であるべき人々の欺瞞にその原因があります。この事を分析してみると、以下の問題が見えてきます:
1. 聖職者として模範的な人々も、以下の理由からその知識を伝達していけない:
1. 人々が彼らの言う事に関心を持たない為
人々が聖職者に求めるものが、聖水やお守りといった「スピリチュアル系」のもののみになってしまうのです。
2. 人々が自分の学問を鼻に掛けて、道徳的な教えに価値を見出さなくなる為に職業的な、お金儲けに繋がる知識の方が精神的な智恵よりも大事だと考えるようになります。
F. 参考のお話
敬意を示すべき相手に敬意を示した場合にどうなるのかを示す為のお話をしましょう。
F-1. 喩え:若木に当てる添え木
まだ貧弱な若木には添え木を宛ててあげないと、強風によって根こそぎ薙ぎ倒されてしまうでしょう。人生における精神的な成長を望む人が、敬意を示すべき相手に敬意を示していく事もこれと同様なのです。敬意を表する事により、その相手の事をいつも意識していく事ができるようになり、そうしてその人を導きの灯としてその背中を追いかけていく事で、人生にしつこく付きまとう邪見や、その他の良からぬ事柄から自身を守っていく事ができるというわけす。
F-2. 花飾り師スマーナのお話7
お釈迦様の時代のお話です。当時、宮廷内の人々はそれぞれの役割担当ごとに同じ場所に集まって生活しており、その中にはフラワーアレンジメントをする人たちのみが住む一角もありました。当時その一角の長を務めていたスマーナという人がおり、彼の役割は宮殿全体から玉座、果ては王の寝室までを花で飾り、かぐわしい香りで満たす事でした。スマーナは長きに渡ってミス一つ無く務めを果たしてきており、彼の仕事ぶりに不満を抱く人は誰もいませんでした。
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7「スマナマーラカーラ・ワットゥ」(Sumanamālakāra-vatthu:DhpA.ii.40-47)
花が不作の時期でも、スマーナは花が手に入ると聞き付ければ、それがどんな遠くの店であっても出向いていき、花を買い占めてくるのでした。そんな訳で、その街では自分の為の花を持っている人は誰もおらず、全ての花が宮殿の装飾用に使われていたのでした。
スマーナには街の花全体に関する全権限が与えられていたとはいえ、干ばつによって花が一切取れない状況に対しては打つ手がありませんでした。花どころか、食料すらままならなかったのです。そんな状況ながらも、スマーナはお椀8 杯分程のジャスミンの花をやっとの思いで手に入れました。その程度の量では宮殿を飾る事など到底無理ですが、それでも無いよりはマシというものでした。
さて、そのお椀8 杯分のジャスミンを宮殿に運んでいく道中、スマーナは托鉢をしていたお釈迦様と出会いました。スマーナもよくお釈迦様の説法を聴きに行ってはいましたが、一つには彼はあまり裕福では無かった事、もう一つには彼の信心がそこまで深くなかった為に、お釈迦様に正式にお布施をしたことはありませんでした。
しかしその日のスマーナの目には、お釈迦様がなんだかいつもよりも輝いているように見えたので、敬意を表さなくてはと思えてきました。お釈迦様の立ち居振る舞いがあらゆる点に於いて完璧であった為、彼にはもうひれ伏してお辞儀をする他に無いように感じられたのです。そして、彼は今の自分にお布施できるものと言えばこのジャスミンしかないな、と思いました。これを王様のもとに持っていけば、王様は彼にお金と食料、衣服を与え、一生の間ずっと面倒を見てくれるでしょう。しかし、その日の彼はお釈迦様にお布施をすることによって現世だけでなく来世以降にも善果が得られる様な善業を積みたい、と思い、その為ならたとえ王様に処刑されても悔いは無いとまで思いました。
スマーナは額の位置にまで花を掲げると、意を決してそれをお釈迦様の進む道の先に撒き散らし、芳香の捧げ物としました。
この、自分の命を省みないほどの強い決意を以て為されたお布施に心を打たれたお釈迦様は、スマーナが真の喜びを感じ、大いなる功徳を得て将来覚りに至れますように、と祝福を授けました。
スマーナが撒いた花は空高く浮き上がって網状になり、その花の網はお釈迦様の後をずっと付いて回り、この芳香を嗅いだ人は皆何事かと家の外に出てきては、お釈迦様の姿を拝みました。
お釈迦様の事は以前から知っていたもののそんなに関心が無かった人々も、この日のお釈迦様の姿を見て信心に目覚めたといいます。ちょっとだけ信心に目覚めた人は合掌をしました。それよりももうちょっと信心の強かった人は、合掌をしながらお釈迦様を讃える言葉を唱えました。更に信心の強かった人はお釈迦様に食物を捧げ、花の様子を見るためにお釈迦様に同行しました。
托鉢の為に街全体を廻っていたお釈迦様は、ついに宮殿の前にやってきました。噂を聞いていた王様は、自身もお布施をしようとお釈迦様を朝食に招きました。
食事中も、祝福を与えている間も、ジェータワナ(Jetavana:祇園)精舎への帰途に就いている時も、花の後輪はずっとお釈迦様の上に浮かんでいました。お釈迦様が精舎に着くと、ようやく花は下に落ちて門前を飾りました。これを見た人々はより信仰を深め、スマーナも「後で王様に処刑されてしまったとしても、これなら悔いは無いな」と思いました。
ところが、スマーナの妻はそうは思いませんでした。彼女には、自分の夫がなぜそんなバカな事をしでかしたのか、と理解できませんでした。
「王様に花を献上していればお金が貰えたのに、お釈迦様にあげたって一文にもならないじゃない。信心が得られたといっても、それで飢えた子供たちを養えるもんですか。ましてや、花の事で王様の不興を買ってスマーナ自身はもちろん、私や子供まで処刑される事にでもなれば、これはもう全部バカな夫のせいでしょう。所持品が没収されるとして、それはスマーナの所持品だけかしら。いやいや、私たち家族の所持品も没収されてしまうかもしれないわ。そんなのはまっぴらご免よ!」
彼女は王様に直々に謁見し、夫の行為に関して自分が無関係である事を訴えました。彼女は離婚を宣言し、夫に対して何か沙汰があっても自分には無関係だと訴えました。王様が彼女の意思を再確認すると、彼女は「間違いありません」と答えました。
実のところ、王様はスマーナに対して腹を立てるどころか、この花飾り師の美徳に密かに大きな感銘を受けており、褒美を与えようと考えていたのです。そういう訳で、妻に去られたスマーナは一人で褒美を受ける事になりました。
この噂がお釈迦様一行の下に届くと、アーナンダ尊者はこの件に於いてスマーナが信心から得た功徳はどんなものですか、とお釈迦様に尋ねました。これに対しお釈迦様は、スマーナが見せた、自らの命をも投げうつほどの信心は真心からのものであり、10 万劫の永きに渡って彼の心を輝かせ続けるでしょう、と答えました。また、この先どれだけ多くの転生を経験するにしても、スマーナは地獄、畜生、餓鬼、修羅などの領域には落ちることは無く、人間か天人のみに生まれ変わり、やがては独覚(paccekabuddha)としての覚りに至るだろうとも言いました。
こうして、お釈迦様に対しての信心を示した事により、スマーナはその後何代もの生まれ変わりの間、常に澄み切った輝く心を持って生きていくことが出来るようになりました。彼はどの生涯においても揺るぎない理性と健全な判断力を持っていたので、当然の結果として賢者になりました。
これが、敬意を表すべき相手に敬意を表する事による果報です。そのように輝かしい心を持っていれば、どのような人生に於いてもやがては正見に至れるでしょう。
F-3. 仏塔の建設を手伝ったスッダピンダヤ師のお話8
もう一つ皆さんの参考になりそうなお話に、スッダピンダヤ師のエピソードがあります。覚りを得て阿羅漢に至り、自分の過去生を観る事が出来るようになった師が瞑想をして自分の過去生を観ていくと、自分がこうして阿羅漢に至れたのは、ある過去生においてほんの一握りのライムを供物として捧げた事によるのだという事がわかりました。
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8「スダーピンディヤッテーラッサ アパダーナッタカター」
(Sudhāpiṇḍiyattherassa Apadānaṭṭhakathā:ApA.406-407)
過去生のスッダピンダヤ師は、ある過去仏の時代に生まれましたが、その過去仏は既に般涅槃(parinibbāna)の状態に入っており、人々はその過去仏の遺物を収める為の仏塔を建設しようとしているところでした。過去生のスッダピンダヤ師は、貧しいにも関わらずとても信心深い人物でした。
「私はこれまでずっと仏様のお教えとその大徳のお世話になってきた。今まさに人々は仏塔を建てて、仏様のお示しになられた素晴らしい行跡を未来の人々の為に残していこうとしている。この機会に、私も何か協力しなくては」
こう思うとますます強い信心が湧いてきて、なんとかして仏塔の建設の役に立ちたいと思いましたが、貧しい彼にはお布施できそうな物が何一つありませんでした。彼はどうにかして一握りのライムを買ってくると、それを仏塔の建設に役立ちますように、と言って寄付しました。これは内容から言えば取るに足らないお布施ですが、彼の信心は本物でした。
この信心によって、それ以後の彼の心は幾生にも渡って輝き続け、最終的に阿羅漢に至るまでの間、人間と天人以外に生まれ変わる事は無かったといいます。
反対に、もし怒りや恨みの心を94 劫の間燃やし続けた場合、延々と憎しみの行為のみを行う様になり、その莫大な悪業によってもう二度と人間として生まれられなくなってしまうと言います。
F-4. 仏塔に供え物をしようとしたコサタキのお話9
次はコサタキさんのお話です。彼女の名前には「ウリ」という意味があるのですが、ウリにもいろいろな種類があります。食べられるウリもあれば、不味くてとても食べられないものもあるでしょう。お釈迦様が亡くなると、アジャータサットゥ王は壮大なお葬式を挙げてその遺物を仏塔に収めて祀り、その後に仏塔完成記念のお祭りを開きました。その中に、お釈迦様を存命中から敬ってきた、ある非常に貧しい女性がいました。国中がお祭りに興じている中、彼女も花を持って仏塔を飾りたいと願いました。ところがこの女性は、どの花が上等だとか適切だとかいった判断力を欠いており、街の他の人々のように綺麗な花を買って来るという発想に至らなかったのです。彼女は山野を駆け巡った挙げ句、黄色く輝くウリを4つ手に入れてきました。しかし、それは食べられない、売ろうとしても誰も見向きもしないようなウリだったのです。そんなウリを4つも手に入れた彼女は、それを抱えて意気揚々と仏塔に向かいました。
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9「ピータウィマーナ・ワンナナー」(Pītavimāna-vaṇṇanā:VvA.200-203)
彼女はお釈迦様に礼拝したい一心で、脇目も振らずに仏塔に急行していました。と、その道中にウシの親子がいたのですが、必死の形相で前進してくる彼女を見た親ウシは彼女が子ウシを害そうとしているものと勘違いし、彼女を突き飛ばして殺してしまいました。こうして、彼女は仏塔に至る前に死んでしまったのですが、彼女の善い行いをしたいという強い意志、悪行を恥じ恐れる心、お釈迦様の優れた行い理解する徳と智恵とが報われ、彼女はウシに突き殺されると同時に天人に生まれ変わったと言います。彼女の衣服は洗練された天人のものに変化し、その色は彼女の摘んだウリと同じく、黄金色に輝いていたそうです。また、彼女に宛がわれた天上の住居も、同じく黄金色に輝く豪華なものでした。
天上界の王であるインドラ神は新入りの彼女を見て、「貴女は一体どんな功徳を積んだ為にそんな立派な黄金色の住居に住むことになったのですか」と彼女に訊ねました。彼女は恥ずかしそうに、「私は大した事をしてないんです。ウリを4つ持ってお釈迦様の遺物を収めた仏塔に捧げようとしてたら、ウシに突き殺されちゃって… 仏塔にちゃんと辿り着けていれば、この着物もこの屋敷ももっと立派だったろうに、悔しいったらありゃしない!」と言いました。
これを聞いたインドラ神は、「既に般涅槃に入られているにも関わらず、御仏を真心から敬う事はこれ程の功徳をもたらすものなのか。生きていても亡くなっていても変わらぬ功徳をもたらすとは、なんともすごい!」と感嘆したと言います。
私たちもお釈迦様の滅後の世に生きていますが、積極的にお釈迦様を敬っていくべきでしょう。
F-5. 怒りをもって礼拝したパンチャパパのお話10
もう一つ、パンチャパパという女性のお話をしましょう。この人の名前には「5 種の悪徳」という意味があるのですが、彼女の父親が娘にこんな名前を付けたのにはある理由がありました。それは、彼女が生まれ付きねじくれた手、貧弱な脚、歪んだ口、歪んだ両目、そしてねじ曲がった鼻をしていたからでした。彼女の身体の内、均整の取れた部位は一つもありませんでした。両の手足の具合さえもぐにゃぐにゃだったのです。そんなわけでこの子はとても見るに耐えなかったのですが、たった一つ、その肌だけはまるで天使の様にスベスベだったのです。そして、このたった一つの長所の為に、彼女は後に一国の女王になってしまいます。宮廷の後宮に入っていた彼女の肌のあまりの素晴らしさに、王様は他の女官たちの事など一切忘れ、彼女の虜になってしまったのです。これに激しく嫉妬した女官たちは彼女に濡れ衣を着せる工作をし、王様も彼女を国外追放せざるを得ない状況に追い込まれてしまいました。ところが、彼女が隣国に流れ着くや否や、隣国の王様もあっという間に彼女の肌の虜になり、彼女を妃として迎え入れました。重度の奇形を抱えていた女性が、このように二国に於いて女王となった件について不思議に思っていた人々の内の一人が、この事についてお釈迦様に尋ねました。
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10「クナーラ・ジャータカ」(Kuṇāla-jātaka:JA.v.412-456)
そこでお釈迦様が彼女の過去生を観てみると、彼女は過去に縁覚に至っていた聖者にお布施をしていたのですが、その際に怒りの心を持っていた事が判りました。ある日、過去生の彼女が家の壁を粘土で補強していると、そこに聖者が通りかかりました。庫裏を建てる為に同じく粘土を必要としていた聖者は、彼女が必要以上の粘土を持っているのを見て、自分の鉢の中に分けてもらえないかと頼みました。彼女は本当は嫌で仕方なかったのですが、それでも粘土を分け与えました。怒りの心を持って、乱暴に粘土を鉢に投げ入れました。顔をしかめ、眉を寄せ、つかつかと地面を踏み鳴らして、聖者に向けて拳を握り締めながら与えたのです。そのようにしてイヤイヤながら為した善行の結果の生まれ変わりとして、地面を踏み鳴らした脚は貧弱に、粘土を投げ入れた手はねじくれ、しかめた顔は何が何だか分らない位にくしゃくしゃになってしまったのです。粘土のお布施をして、縁覚の境地に達していた聖者を雨風から守る為の庫裏の建設に協力した事による善行の成果もちゃんとありましたが、それでも敬うべき相手への礼を欠いた事による悪い結果を完全に相殺するには至らなかったのでした。
吉祥経のこの項目についてまとめれば、敬意を払うべき相手に対して敬意を払わないこと、信心をかき立ててくれる相手を信じないことによって心は曇り、最終的には愚者になってしまうのだということです。